これからどうする―シロシベリトリートの作り方


もう7月半ばだ。何がしたいか分からないまま始まってしまったシロシベ・リトリート、これからどうするか考えているところで、岩波書店から「これからどうする―未来のつくり方 」という本が出た。228人の著者が書いてて、持ち歩くのをためらう672ページ。今年は本を買わないことにしてたけど、どうせ今年の抱負は実現してないことばかりなので、東京丸の内の丸善で平積みになってたのを買ってしまった。

柄谷行人、内田樹、上野千鶴子、養老孟司、山折哲雄、鎌田實、嘉田由紀子、金子勝、今中哲二、國分功一郎、孫崎享、赤川次郎、暉峻淑子、想田和弘、湯浅誠、平野啓一郎、平田オリザ、原研哉、などなど、気になってる人がたくさん書いてて、それぞれ数ページずつなので飽きずに読めた。

メモしておきたいことはいろいろあったけど、シロシベリトリートに関係することで、グッときた部分をメモ。

原研哉。
「家」は、エネルギーや移動、複合化する家電、成熟マーケティングや美意識資源など、様々な産業を融合させることのできる可能性の塊である。これまで「家」が面白くなかったのは、土地と繋がって値上がりする金融商品的な性格を色濃く持っていたために、庶民は皆、間違いのない無難な家の買い方を余儀なくされてきたからである。地価も安定し、物件の再利用も含めて、生活者が主体的に家を構想できる住宅リテラシーが高まってきた現在、家は自分たちの暮らしを充足に導くものであり、伝統や美意識を発露させる対象にもなる。(中略)「シェア」という概念にも深化がおこるだろう。幸福の根拠が個の自由に帰する時代を経て、一人だけ、我が家だけという利己よりも、互いの存在が豊かさや幸せの背景をなすという考え方が芽生えてきそうだ。コミュニティを義務的な集団ではなく、豊かさを支え合う人的連鎖と捉える感覚。共同でキッチンや食堂、カフェを持つとか、広い共同浴場を持つような発想の背景にはこのような感受性が働いており、シェアリング・コミュニティがその先に見えてきている。3.11を経て、こういう傾向はいっそう強まってきた。
「家」「シェア」「発露させる場所」そう、まさにリトリートのキーワード。「物件の再利用」っていうのも重要だと思う。富士通総研のレポートによると、「新設住宅戸数、純滅失戸数ともに現状維持のケースの場合、2028年の空き家率は23.7%となる。」だそうで、空き家を何とか活かしたいって思う人はこれから増える一方だろうし、一方で、なんで家賃やローンに縛られないといけないのかって考える人も増えているようにも感じるので、何かおもしろいことができたら良い提案になるのではないか、と思う。

あと、誰が言ってたか忘れたけど、「所有の概念は土地の所有から始まった。」なんていう話もあって、確かに、土地の私有化と貨幣、支配、これらはとても密接に関係していそうで、このあたりのことを考えるきっかけにしたい、という思いもある。

で、辛淑玉。
今回の被災で、「障がい者」の死亡率は「健常者」の二倍以上だった。高齢者の死亡率は圧倒的に高く、日本語が不自由な人たちの困難は今も続いている。これから未来をと言うなら、目の前で事切れていった人たちが今度は助かる社会を作らなければならない。いつもと同じメンバーで、いつもの「絆」で、新しいものなど作れるはずがないのだ。いま必要なのは、「絆」を断ち切り、新しい共同体を開くことだ。例えば、あなたと私、女と男の性差も超え、マジョリティとマイノリティというように、異なるもの同士の交流を作り出すことだ。それを、とりあえず「交(まじわり)」と呼んでおこう。「家族」ではなく、出身も職種もライフスタイルも異なる人々が共に暮らす「グループホーム」のような社会だ。学校や企業の中に閉じ込められた気合と根性の部活ではなく、地域に開かれたクラブスポーツ。巨大電力会社から買う電気に支配された暮らしではなく、荒れた里山の樹木を使ったバイオマス発電で自給する暮らしなどだ。これらを阻んでいるものは、地縁、血縁、学閥、口添えと、責任を取らない人たちの「絆」なのだ。「絆」を断ち切ってこそ未来は開ける。
「絆」や「縁」、これも気になる言葉で、リトリートの重要なテーマだ。あと、比喩でもなんでもなく「巨大電力会社から買う電気に支配」されないでいたいと思う。水道もガスもつながないでいようと思ってたのだけど、あの場所は井戸を掘っても水が出にくい土地だそうで、妥協して上水道はつなぐことにしてしまった。

田中優子。
大量生産ではなく、少しの優れたものづくり、そして廃棄や修繕こそ名誉ある仕事なのである。成長ではなく縮小こそ、能力を必要とする。昇り方ではなく降り方こそ、教育の要である。たとえば土の下に降りて微生物たちと循環の世界を作る方法、競争せずに自分の能力を伸ばす方法、病院に行かずに回復力を高める方法、そしてお金をあまり使わずに豊かに生きる方法など、これらを今は仮に「降りる方法」と呼ぼう。人間の基本に降りて行く生き方、という意味である。
廃棄や修繕こそ名誉ある仕事、これからの時代はそうだと思う。「シロシベ」はまさにこの微生物の名前。そういえば、リトリートの建物の床下からシロアリが見つかった。「シロシベ」と「シロアリ」のコラボレーションなんて素晴らしいじゃないか、と思って共生の方法を一瞬模索しようとしたけど、妥協して駆除をお願いしてしまった。

蓮實重彦。
納税の義務だけは果たしているが、日本という「国」や「社会」とあまり深い関わりは持ちたくないし、その未来にもこれといった関心は持てないので、「どうすべきか」といった視点から自分の「国」に対する思考を整理したことはない。誰もが「好きなこと」をしていればそれでよいのであり、その「好きなこと」がすぐに見つからなかったり、その実現がいささか困難であったとしても、「国」や「社会」の責任であろうはずがない。「国」や「社会」はこれといった「好きなこと」なしに成立しているから、そこで「好きなこと」をしようとすれば多少の齟齬は生じるが、「好きなこと」をするためなら、他人や自分を決定的に傷つけぬ程度の妥協を自粛する理由はない。
あわよくば、社会のためになることを、より良い社会に貢献できることを、なんていうことも思ったりしてしまうのもするのだけど、一方でそういうのはみみっちいと思ったりもする。国や社会に多少の迷惑をかけても、他人や自分をちょっとくらい傷つけても、「好きなこと」をやれ、「正しいこと」より「好きなこと」を、そこから連帯が生まれる、というメッセージと解釈した。

あと、竹山洋が紹介していた源信の母の手紙も印象に残った。
 後の世を渡す橋とぞ思いひしに
 世渡る僧となるぞ悲しき
 まことの求道者となり給え

少年僧のときに、源信は朝廷に招かれた。天皇は源信の叡智に感動して、色々な土産をくれた。源信は得意満面で、その土産の品を母親に送った。すると母親が書いてきたのが先ほどの手紙であるという。来世に渡してくれる橋になってほしいと思っていたけれど、器用に世の中を渡るための橋になるつもりか、本当の僧になりなさい。(中略)長い間、言葉を紡ぐ仕事をしてきたが、この源信の母の言葉以上のものを知らない。よく勉強して、いい大学に入って、大企業に就職して、高給取りになることが人生の勝者だとされてきた。私も母にそう言われた。だが、もし母が、馬鹿でもいい、貧乏でもいいから楽しく生きなさい、といっていたら、私はもっと違う人間になっていただろう。

僕の場合は、さすが寺の子、小さな頃から「世渡り上手になるな」というメッセージをずっと受けてきたように思う。源信の場合はそのメッセージを受けとめて世俗の縁を断って修行に没頭したわけだけど、そういう感じにもなれず、かといって世俗の世渡りに没頭してるかというと、そんなでもない。「本当の僧になりなさい。」とか言われてもどうしていいか分からないけど、「器用に世の中を渡る橋ではなく、明日に架ける橋になれ」は分かる、...こともないか、よく分からないけど、までも、グッとくる。

というわけで、そんなこんなで、今週金曜日に水道が通る。

130620

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