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芝生化

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久しぶりの更新。 写真は14ヶ月前と2ヶ月前の南小学校の運動会、グラウンドが芝生になった。この1年で、子どもの6分の1は卒業して6分の1は新人で、みんな1つずつ年をとって、新しいデザインの体操服を着てる子が増えて、壁にかかってる標語も微妙に違う。「つかみとれ なかまとともに 感動を」感動って湧いてくるものだろ、命令されてつかむものじゃないし、だいたいこの命令語を発してる主体は誰なんだよ、先輩か?先生か?文科省か?GHQか?とブツブツ言いたくなるのは昔から変わらない。自分が出た小学校の運動会を約20年ぶりに見た時はその内容の変わらなさに驚いたけど、実は毎年少しずつ変わってる。 10月~11月は、報恩講シーズンだ。今年はたくさんのお寺の報恩講に参加したし、まだいくつか残ってる。報恩講は僕が知ってる範囲でも、開催期間が短くなったり、簡略化されたり、食事の準備がアウトソースされたり、新しい繊維素材の袈裟が出てきたり、お坊さんがあまりお酒を飲まなくなったり、いろいろ変化はしてるけど、室町時代からほとんど変わらないデザインの袈裟、同じような作法、同じような節回しのお経、同じような儀式が同じ場所で繰り返されている(らしい)。 身体の細胞が数年で入れ替わっていく感じだ。 ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず、だ。 運動会や報恩講にかぎらず、いろんな習慣、制度、関係性、大きなことから小さなことまで、続いてるものを続けたい気持ちと変えたい気持ちが必ず両方出てくる。そしてどれも、代謝や流水が思い通りにならないように、続けたくても続かないし、やめたくてもやめられない。そうこうするうち、続けたいのかやめたいのかよく分からなくなってくる。岸から河の流れを見てるのか流れる河から岸を見てるのか、代謝してるのか代謝されてるのか、よく分からなくなってくる。 で、結局、その場その場でお茶を濁す。「お茶を濁す」とは「茶道の作法をよく知らない者が程よく茶を濁らせて、それらしい抹茶に見えるよう取り繕うことから生まれた言葉」ふふふ。まさに全部それだ…。 この秋はわりと忙しかったのだけど、本をたくさん読んだ。村上春樹の「村上さんのところ」と村上龍の「すべての男は消耗品である。」を一気読みしたのが楽しかった。 エマニュエル・トッド, 堀茂樹・訳「「ドイツ帝