2016/08/25

37



37歳だ。ここ数年、誕生日に生命表を見るのが恒例になっていて、今年も見てみた。

日本の37歳の男性の平均余命は44.69年で、38歳までに0.08%が死ぬそうだ。45年は予定を立てるには長すぎるし、0.1%弱は気にするには小さすぎるので、結局「へぇ」と思うだけで終わるのだけど。

とりあえず、コツコツまじめに生きてるといいんだろうなぁ、と思う。

2016/08/12

深い河とヒンドゥー



ほとんど毎日琵琶湖で沐浴してふやけっぱなしだ。

さて、インドで見かけたオレンジ色の服を来てガンジス川に「お水取り」に行く人たちのお祭りの名前を後日ガイドさんがLINEで教えてくれた。「そのまつりのなまえは shivratri というまつりです。」とのこと。シヴァラートリーでした。とても大規模に見えたので、てっきり年に一度あるいは数年に一度のお祭りだろうと思い込んでいて、Wikipediaを見ても、どうも違うなぁ...、と思ってたのだけど、月に一度のシヴァラートリーだったそうだ。あれが毎月行われているなんて...。ヒンドゥー、すごい。

で、インドの旅のお供にと思って遠藤周作の「深い河」と森本達雄の「ヒンドゥー教 ― インドの聖と俗」をKindleに入れていったのだけど、結局全然読まずに帰ってきてしまったので帰国後に読んだ。


「深い河」は、1993年に発表された小説で、インディラ・ガンディーが暗殺された1984年10月~11月にかけて実施された日本からのインドツアーが舞台。小説中のツアーの内容が、デリー、ヴァラナシ、アグラで、今回の旅行で辿ったコースと全く同じ、とっても面白く読めた。 

5人の主人公のあらましがWikipediaに書かれてるのだけど、それをさらに大雑把にまとめると、 

磯辺
妻を癌で亡くし空虚感の中で暮らす初老の男性。妻が臨終の間際うわ言で言い残した「自分は必ず輪廻転生し、この世界のどこかに生まれ変わる、必ず自分を見つけてほしい」という言葉が、下らないと思いつつも気になって仕方ない。そんな折、日本人の生まれ変わりと自称する少女がヴァラナシ近くの村にいると聞き、いろいろと思うところがあってインドツアーに参加する。
美津子
上智大学卒の30代の美人。磯辺の妻の死ぬ間際をボランティアで介護していた。多くの恋愛や結婚、離婚などを経験しているけども、本当に他人を愛したことがなく、キリスト教の愛の教えにもなじめない。大学の同級生の大津がヴァラナシの修道院にいるという噂を聞いて、いろいろと思うところがあってインドツアーに参加する。
沼田
動物を心を通わせる童話作家。結核で生死の境をさまよった経験があり、その入院中に死なせてしまった九官鳥が自分の身代わりになってくれたと考えるようになり、いろいろと思うところがあってインドツアーに参加する。
木口
戦時中にインパール作戦に参加していた老人。地獄のような戦時中の体験を抱えつつ戦後を生き、後年東京で再会した戦友は、戦時中人肉を食べたことを告白して死んでいく。いろいろと思うところがあってインドツアーに参加する。
大津
学生時代に美津子に遊ばれて捨てられた同級生。熱心なカトリックの家に生まれ育ち、内向的で真面目で不器用な性格で、神父を志してフランスに留学するも、善悪二元論、合理主義、多宗教への排他性などが腑に落ちない。流れ流れてヴァラナシの修道院に入り、行き倒れた人たちの遺体を運ぶ日々を送っている。

さらに、ツアー添乗員の江波、カメラマン志望で新婚の軽薄な三條とその妻、などなどが脇を固める。

それぞれ過去や思いがヴァラナシのガンジス川に集まって交錯して...、というお話。愛、命、信仰などが主題で、それぞれの登場人物に遠藤周作が投影されていていて、作者のとっても生真面目な人柄が伝わってくる上品な文章。30年前のインドが舞台で、古臭く感じるところ、何も変わってないところ、いろいろあって面白い。今回、他の旅行者と接する機会が全然なかったのだけど、空港などで他の日本人を見てると、30年前に比べてインド旅行がカジュアルになってる感じはした。でもやっぱりクセの強うそうな人もたくさんいて、話す機会があったら面白かっただろうなぁ。

小説中、
美津子はまた例の微笑をうかべた。しかしこの時は自分の本心をかくすための、いつもの微笑ではなかった。印度にきて次第に興味を起したのは仏教の生れた国、印度ではなく、清浄と不潔、神聖と卑猥、慈悲と残忍とが混在し共存しているヒンズーの世界だ。釈尊によって浄化された仏跡を見るよりも何もかもが混在している河のほとりに一日でも残っていたかった。
ってあるのだけど、これは本当に同感。ヒンドゥーの世界はほんと興味深いし、惹かれる。ツアーのガイドさんも言ってたけど、ヒンドゥー教徒から見れば仏教はヒンドゥーから枝分かれした一つの宗派、くらいの位置づけのようで、これは宗教学的には異論があるのかもしれないけど、直感的に、雰囲気的にとても納得できる気がした。し、その方が何だかしっくりくるし、嬉しい気がするのはどうしてだろう。

で、森本達雄の「ヒンドゥー教 ― インドの聖と俗」もとてもおもしろかった。そもそもヒンドゥー教って何なのか、というところからおもしろくて、
ヒンドゥー教には、まず第一に、キリストやブッダやマホメットに相当する特定の開祖は存在しない。それゆえ、成立の年代もいつごろか漠として特定できない。ヒンドゥー教は──インドのある高名な宗教学者の言葉をかりれば──「この宗教には初めも終わりもなく、われわれの地球が存在する以前から、未来永劫、生滅をくりかえすどの世界をもつらぬいて存在する」ものとして、時間を超越し、歴史を拒否するといった側面すら見られるのである。 つぎにヒンドゥー教には、キリスト教の『聖書』、イスラーム教の『コーラン』、あるいはヒンドゥー教の改革宗教として北インドのパンジャーブ地方に一大勢力をもつシク教の『グル・グラント・サーヒブ』のような、その宗教全体の核となる『聖典』がない。したがって、ヒンドゥー教全般に通用する明確な教義・教理も存在しない。 また、ヒンドゥー教のばあい、宗派と言っても、それらはそれぞれに同一の神を信奉する独立した信者たちのグループ分けにすぎず、キリスト教やわが国の仏教諸宗派に見られるような制度化された教団組織ではない。それゆえ各寺院は、同じ宗派に属するときでも、互いに独立・併存の関係にあり、いわゆる縦の上下関係も、横の連係ももたない。
開祖も教義も教団もはっきりしない上に歴史を拒否する、って、もはや「宗教」という言葉でくくってしまっていいのかどうかもよく分からないし、実際に「一宗教というより制度や風習等の総体を指す」という説明がされることが多くって、インドらしくめちゃくちゃ多様で、おもしろい。

そしてガイドさんも言ってたように、
ヒンドゥーは概して、信仰や教義の面で他宗教を排斥せず(現実の政治や社会問題がこれにからむと、問題は複雑になるが)、一般に独立宗教とみなされている仏教やジャイナ教、シク教など、インドに起源をもつ他宗教をすべてヒンドゥーの側から一方的にヒンドゥー教の分派とみなす傾向がある。
インド生まれの地球育ち、だいたいの奴はだいたい友達。だ。こういうの好きだ。そして、インドの宗教学者が著者に話してくれたというヒンドゥーの説明がすごかった。
 私はホーリー祭の解放感から、思いきって自分の疑問を宗教学者にぶつけてみた──「ヒンドゥー教というのは、ひとことで言うと、どんな宗教でしょうか?」と。
 敬虔なヴァイシュナヴァ(ヴィシュヌ宗)信徒である教授は、外国人の唐突な質問に一瞬驚いたようであったが、やがて私の質問の意味が了解できたらしく、「ヒンドゥー教というのは、譬えて言えば、このような宗教だと言えるかもしれません」と、語りはじめた。
 ある日、村の少年が学校帰りに道端で瀕死の小鳥を見つけた。少年は、二度、三度羽をひくひくふるわせ、やがて身動きしなくなった小鳥の死を見とどけると、なにを思ったか、傍らの木片で小鳥の周りにぐるりと輪を描いて走っていった。つぎにそこを通りかかったのは、畠仕事を終えて帰る農夫であった。彼はしばらく、輪のなかの小鳥の死骸を不思議そうに見ていたが、肩から鍬をおろすと、穴を掘って小鳥を埋葬し、その上に小石を積んで帰っていった。
 夕方いつものように、瓶を頭に乗せた女たちが、にぎやかに談笑しながら村の共同井戸へ水汲みにやってきた。女たちは小さな石塚の前まで来ると、急に黙って立ち止まった。女たちは互いにひそひそ話し合っていたが、それぞれ道路わきの藪から野花を摘んで塚に手むけ、サリーの縁で顔をおおうと、ひとしきりお祈りをして立ち去った。
 こうして、いつしか小鳥の塚は村人たちの新しい信仰の場となった。だれ言うとなく、そこにはヴィシュヌ神(シヴァ神と並ぶヒンドゥー教三大主神の一つ)の従者の霊鳥ガルダ(金翅鳥)の羽が落ちたところだということになった。信心深い村長が長老たちを集めて、新しい祠を建てる相談がまとまった。数か月後、どこからともなく、額にヴィシュヌ宗の印をつけたサードゥ(行者)がやってきて、祠の傍らに小屋を建てて住みつき、毎日朝夕の祭祀をおこなった。村人たちは貧しい暮らしのなかから、行者のもとに食べ物や衣類を届けた。
 翌年の春の田植の前に、村をあげて祠の前で豊作を祈願したところ、その年は旱魃にも洪水にも見舞われず、例年にない豊作であった。この噂が口づてにひろがると、近隣の村々から善男善女たちが徒歩や牛車で参詣に押しかけるようになった。こうして、名もなき寒村に立派な寺院が建ち、その地方の人びとのヴィシュヌ信仰の拠点のひとつとなったそうである。
 この譬え話がはたしてインドのどこかで現実にあった話かどうか、私は聞きもらしたが、それを問う必要はなかった。
こんなに美しく信仰が生まれる場面を説明する言葉、初めて見た。死んだ小鳥の周りに少年が描いた丸い線が、ちょっとずつ波紋を広げて、数千年にかけて広大な範囲に広がって、様々な言語や文化を持つ数えきれない人々の世界観に影響を与える大きな波になった、その波の端っこに自分がいる、って思うと、なんだかグッとくる。

あ、あと関係ないけど、インドの挨拶「ナマステ(नमस्ते, namaste)」は、ナマス (namas) + テ (te) で、ナマスは「敬礼・服従する」、テは「あなたに」の意味。ナマスは、漢訳仏典では「南無(ナム)」と音写されて、南無阿弥陀佛の「南無」とナマステの「ナマス」が同じ言葉なのだけど、インド・ヨーロッパ語族なので、もしかしてと思って辞書引いたら、このテ (te) とフランス語の「あなた Te」が同じルーツの言葉、つまり、ナマステーの「テー」とジュテーム(Je t'aime)の「テー」が、同じ「テー」だった。ナンマイダー(日本語)とジュテーム(フランス語)を足して(都合よく)半分に割るとナマステー(ヒンディー語)になるってすごい!と感動したけど、そうでもないか。いや、すごい。世界ってつながってる。

2016/08/03

インドに行ってきた

インドに行ってきた。

インドといえば仏教のルーツ。お釈迦さんを生んだ国としてのインドが最初の接点だと思う。子供の頃、お寺の本堂の壁にかけてあった涅槃図の気色悪さは今でもよく覚えてて、生まれて最初に触れた異国情緒はインドだったかもしれない。

次は高校の数学の先生の話に出てきたラマヌジャンかな。ゼロの発見とか、十進法とか、アラビア数字の起源とか、インドの数学はすごいっていう話が印象に残ってる。

で、次は、藤原新也の「メメント・モリ」鬼海弘雄の「INDIA」に感動してガンジス川に憧れる。

で、最近だと、GoogleのCEOのピチャイとか、MicrosoftのCEOのナデラとか、ペプシのCEO、ドイツ銀行の元Co-CEO、NokiaのCEO、シティグループのCEO、マスターカードのCEO、Standard & Poor's のCEO...、名だたる企業のCEOがインド出身者で話題になってる。ソフトバンクの孫正義の後継者として名前が挙がってたアローラもインド出身。

僧侶としても、理系出身としても、写真好きとしても、CEOとしても、インドが気になって仕方ない。というわけで、インドに家族旅行に行ってきた。3日間でデリー、ヴァラナシ、アグラを駆け足で。

本当はバックパッカーみたいな感じで安宿に泊まる旅がインドを満喫できるんだろうけど、子連れなので日本の旅行代理店経由で頼んだ現地ガイドさん付き、 ホテルはきれいなところで、移動もほとんど貸し切りの車、という大名旅行みたいな3日間のツアーだった。



うわさの野良牛。ほんとにいたるところにいて、他にも、山羊、豚、猿、犬、リス、人間、見事に混ざり合ってて、ごく自然に一緒に生きてる感じが素敵だった。こんな感じだと臭そうなものだけど、確かに臭いんだと思うけど、どこでもお香を焚いてて、香辛料、排気ガス、砂埃、汗、川、全部の匂いが強烈なので牛の匂いなんてまるで感じない。ピンクの首巻きをしたおじさんおしゃれだ。



道路も印象的だった。自動車、バイク、リキシャー(人力車)、オートリキシャー(PIAGGIOのApeみたいなやつ)、自転車、歩行者、牛、みんなグチャグチャで、舗装もグチャグチャで、みんな呼吸するようにずっとクラクションを鳴らしてて、車間距離ほぼゼロ、10センチ隙間開いたら割り込む、みたいな感じで、みんな運転が上手というのかなんというのか...。バイク、一応法律的には二人乗りまでしか許されてないらしいけど、3~4人乗りは普通で、6人乗りまで見た。ものすごくシートの長いバイクをインドで売ったら売れるんじゃないだろうか。

インド進出に最も成功している自動車メーカーはスズキだそうで、確かにスズキだらけだった。あとは、トヨタ、TATAっていうインド国産車、ヒュンダイ、時々欧米の車を見かける感じ。これについてのスズキの鈴木会長のコメントが、
よく『スズキさんは先見の明があって素晴らしいですね』などと言われる。冗談じゃない。先見の明なんてどこにあるかって。本当は、我々だって大手と同じように先進国に進出したかった。しかし、先進国の中で小さなクルマを造ってほしいと言ってくれる国はどこもなかった。別に先見の明があったわけではない。行くところがなくて、仕方がないからインドに行ったのだ。
インドもスズキもなんだかいいなぁ...。



あと、オレンジ色の服を着ている人がたくさんいるのだけど、これはガンジス川で汲んだ水を地元に持って帰ってシバ神に奉納するというヒンズー教のお祭りで、みんなポリタンクを天秤棒でかついで、遠い人だと数百キロを裸足で徒歩で往復するのだそう。お祭りの名前を聞いたけど忘れてしまった。これだけ大規模なお祭りなら後でググればわかるだろうと思ってたけど、わからない...。さすがインドだ奥深い。(後日、ガイドさんが「シヴァラートリー shivratri 」だとLINEで教えてくれました。



写真じゃ全然伝わらないけど、車とバイクはクラクション鳴らしっぱなし、店からは大音量のエキゾチックな音楽、オレンジの服の人たちは大声で掛け声、まさに喧騒。そして、ところどこに牛が静かに寝てて、しょうもない絵葉書やブレスレットを売りつけようとする老若男女が前後左右から珍妙な日本語で話しかけてきて、5人乗りのバイクに轢かれそうになりながら、ずっとついてくる。



そして憧れのガンジス。



雨季で水かさが増してて、ボートが使えないそうで岸に繋がれたまま。沐浴ってもっと静かなものかと思ってたけど、お祭り中だからなのか、小学校のプールみたいに水かけあったりしてて楽しそう。そりゃ数百キロ歩いてやっとたどりついたガンジス、盛り上がるだろうなぁ...。で、僕もせっかくなので、ガイドさんはやめて欲しそうだったけど、服を脱いで沐浴してきた。川の水でうがいする度胸はなかったけど。



まさに異文化って感じなのだけど、みんなスマホで写真撮り合ってたり、オレンジの服がアディダスだったり、やっぱり同世代だ。ポケモンGOのジムにはわりと強いモンスターが配置されてて、何がすごいんだか分かんないけど、なんだかすごい。



ガンジスのほとりで剃髪するのは何か宗教的な意味があるのかな。深い理由がありそうでなさそう、なさそうでありそうなのがインドだ。



で、アグラ城、タージ・マハルにも行ってきた。ムガル帝国の5代目の王様が300人いる妻の中で一番のお気に入りだった一人だけのために建てたお墓がタージ・マハルだそうで、白い大理石のお城はなんとも豪快だ。



で、結局、お腹をこわすこともなく無事に帰ってきたのだけど、インド、なんなんだろうなぁ。豊と貧、古と新、静と動、美と醜、虚と実、聖と俗、生と死、全部ぐっちゃぐちゃに混ざってて、というか、そもそもそんな分け方がどうでもよくなるというか、とても刺激的だった。

小2の娘には事前にタージ・マハルの写真だけ見せていたので、てっきりきれいなお城を見に行くものだと思っていたらしく、「臭い!暑い!眠い!思ってたのと違う!」と終始ご立腹だったけど、インドおすすめです。

👇 写真他にもいろいろあります。 India

放題



今日から日本でも Kindle Unlimited サービス開始で月額980円で12万冊読み放題になって、計算するまでもなく元は取れるので早速登録してしまった。去年から Apple Music を使い始めて、これで聴き放題の読み放題。音楽聴きながら本を読んでればとりあえず幸せなので、月額1960円で幸せ放題なのだけど、どうしよう...。

子供の頃に「本やCDを我慢せずに買いたいだけ買えるようになったらどんなに幸せだろう」と思ってたような気がするけど、月額2000円弱で実現できる時代がこんなにすぐに来るだなんて。

Kindle に入ってない読みたい本とか Apple Music に入ってない聴きたい曲とか時々あるにはあるけど、問題は足りないことよりも足り過ぎてることで、数十万冊とか数百万曲とかって1000歳まで生きても触れきれない。

だいたいがそうだ。

食べ放題というのがあるけど、食べれる量には限界があるし、カロリーやプリン体が気になるお年頃なので自分でリミットをかけてしまう。飲み放題も。そんなに酔っても失言したり失敗したり失禁したり記憶を喪失したり失うものの方が圧倒的に多くて、限界は体の方にある。

服もそう。買うお金がないとか、売ってないとか、そういうところが足りないのではなくて、むしろ足りないのは着る機会や着る体の数だ。

PCの性能とか回線速度も。昔はPCが計算してる時間とかダウンロードを待ったりする時間とかもあって、そういう制約が作業速度のボトルネックになってたこともあるけど、今はそんなことはまるでなくて、ボトルネックになるのはいつも自分のモチベーションの方だ。

車も。200 km/h のスピードが出る車でも、法律の制限速度があるし、それがなかったとしても、そもそもそんなに急いで行きたい場所の方がないし、スーパー銭湯にスーパーカーで行っても仕方ないし。

放題。なんて幸せなんだろう、と思う反面、お腹いっぱいで死にそう。

2016/07/14

入浴の方法について



完璧な入浴などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。

というわけで、生きるのって大変なので、楽に生きる方法を考えているのだけど、それはとても難しい課題なので、スモールステップで考えてみようということで、とりあえずお風呂の時間をより良いものにしてみたい。

「入浴とは、主に人が身体の清潔を保つことを目的として、湯や水・水蒸気などに身体を浸すことを指す。」が一般的な入浴だけど、ここでの入浴はちょっと違う。いやだいぶ違う。目的は体の清潔じゃなくて梵我一如の境地で、宇宙と一体になる技法としての入浴の話だ。って何を言っているのかよく分からないので、具体的な方法を見ていきます。

まず、浴槽にお湯をためる。ガツンとキメたい場合は温度は高め、そうでもない場合はぬるめ、要は何でもいいのだけど、お湯をためて体を浸したい。

次は、匂い。お香を焚くのがおすすめ。入浴剤とかバス・フレグランスとか専用のものがいろいろあってそれもいいのだけど、匂いってすぐに鼻が慣れてしまって、お湯全体から匂いが出ていると単調でつまらないので、お香を炊いて、匂いの濃淡から空気の揺らぎが感じられるのがいいように思う。あと、やっぱ、火の匂い、焦げる匂い、っていうのは、心の深いところを気持良くさせるように感じる。

で、照明。暗いのがいい。照明を全部落として、給湯器の操作パネルの液晶の光だけ、みたいな感じもいいけど、ここはやっぱりろうそくを持ち込みたい。もっと贅沢をいうと、石油パラフィンで作ったろうそくよりも、和紙+木蝋で作った和ろうそくのほうが、炎のゆらぎがきれい。もっともっと贅沢いうと、半露天で月明かりだけ、とか、焚き火・篝火の明かりもロマンチックで良さそうだけど、フィージビリティとの相談になってくる。というか、月明かりの下で風呂に入る、なんてことは大昔でもできてただろうに、なんで現代ではこんなに難しいんだ。

でまぁ、このあたりまではただの快適な入浴方法で、健康や美容に良さそうなゆるふわモテお風呂なのだけど、そんなことはどうでもよくて、というか、健康とか美容とかモテとかがどうでもよくなるような境地に至ることこそが目的なので、もうちょっと続きます。

次は音。音楽がいい。どんな曲がいいか。どうも重要なのはリズムであって旋律や歌詞ではないように思う。むしろ、歌詞が聞き取れて意味がとれてしまうような感じはよろしくないように思う。言葉の意味に引っ張られてしまうので。あと、思い出の染み付いた曲とかも、過去に引き戻されるのでよくない。意味を超えて現在過去未来の区別がなくなる感じを目指しています。で、説明しにくいので、プレイリストを作ってみた。入浴1セッションにぴったりの約90分。



これをお風呂の水面が波立つくらいの大音量で流したいところだけど、いろいろと難しいので、ポータブルスピーカーとかでできるだけ大きめの音で、それも難しい場合は防水イヤフォンとかを駆使して、できるだけ大きな音で聞きたい。

小田嶋隆さんが書いてたけど、
もしパチンコ屋の店内が世田谷美術館の館内みたいに静かだったら、パチンカーはちょっと困るはずだ。彼らはたぶん、自問自答をはじめる。「オレはどうしてこんなところにいるんだ?」「勝てる道理があるんだろうか」「オレは負け組なのか?」… 静かな台の前に座るパチンカーの心は千々に乱れる。そして、無心でいられなくなった時(あるいは、我に返った時)、勝負事は、勝負事でなくなる。アタマを空っぽにしていない人間が携わるギャンブルは、ただの散財だ。巨大な音の壁はそれに囲まれている人間の自我を曖昧にする。音の奔流の中にいる時、人は自他を区別しない。だから、周囲の人間の視線も気にならないし、他人の姿を見てあれこれ詮索することもしなくなる。
本当にその通りだと思う。いい年したおっさんがお香を炊いて暗いお風呂に長時間入るなんてことはやってはいけないことなので、ぜひ音の壁で自我を曖昧にして、自他の区別をなくして、頭を空っぽにして無心にリズムを感じていただければと思います。

ちょっと話はそれるけど、お経って、サンスクリットの漢訳の日本読みなので、耳で聞いてそのまま意味が頭に入ってくる人はいないのだけど、これがずっと読まれ続けているのは、やっぱり意味の分からなさがいいんだと思う。単調なリズムで意味の分からない音を声にするのって、自他の区別を曖昧にして自我を溶かす効果があるんだろう、と。もちろん意味は意味で重要なので、それを法話、和讃、座談会みたいなものが担っているんだろうなぁ、と思ったりする。

話は戻ってお風呂、ここまでに、視覚は暗闇+ろうそく、聴覚は大音量、嗅覚はお香、触覚は全身温水、という具合に五感の中の4つはもうバカになっているのだけど、味覚が残っていて、これもどうせなのでバカになってほしい。酒、飴、ガム、歯磨き、いろいろ試してみたけど、これはなかなかいいのが思い浮かばない。喉が渇くので結局は冷たい水が一番気持ちいいように思うけど、どうかなぁ。

で、お風呂に入っているだけだと退屈なので、何かやることがあるといいのだけど、すでにやっていることがあって、それが呼吸で、呼吸法についてはヨーガ、禅、武道、医療、軍隊、…いろんな世界で蓄積があるようで、ググるだけでもおもしろい。基本は、思い切り吸って、ゆっくり細く吐ききる、なんだろうなぁ、と思う(そういえば読経もやっぱりこの呼吸だ)。で、お風呂の場合は、音楽のリズムに合わせて「1,2,3,4...」と数えながらするのもよさそう。

で、これをお湯の中、外、中、外を何度か繰り返していると、まぁ、たいていのことはどうでもよくなってきて、というか、実際問題、たいていのことはどうでもいいわけなので、というか、全部どうでもいいのかもしれないけど、いや、なんていうか、投げやりな気持ちではなく、いい意味で、どうでもよくなるのでおすすめです。