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Showing posts from January, 2012

家族内呼称、精神障害、東大話法、RATM、唯識、ソシュール、ラーメンズ

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お父さんが子どもに向かって「お母さんが...」と言うとき、この「お母さん」は話者の妻であって母ではありません。お婆さんが孫に向かって「お兄ちゃんが...」という時、それは孫から見たお兄ちゃんを指します。最年少者の目線に合わせる日本語の家族内呼称についてはたくさん研究されているようで、ググると面白そうな論文がいろいろ出てきます。家制度や役割について、ジェンダーについて、深層心理について、日本文化について、いろんな切り口の論文があります。 個人の名前があるのに名前で呼ばず、家族内の役割の名称で呼ぶあたり、日本の役割重視の文化の片鱗がうかがえ、また、最年少の目線に合わせる優しさが表れているとも見えるわけですが、これに関連していくつか思い当たることがあったのでメモ。  まず、僕のなじみのあるところで「精神障がい者」の呼称について。古くは「癲狂(てんきょう)者」、明治に入って「精神病者」、昭和になって「精神障害者」、最近だと「害」がひらがなになって「精神障がい者」。日常的に使われる言葉でも「当事者」や「利用者」「メンバー」いろいろあります。 英語でも同じで、20世紀に入るまでは「loons」「lunatics」「imbeciles」など「狂った人」の意味の言葉が用いられ、その後は患者や入院者の「patients」「inmates」、そして70年代移行「ex-patients」「survivors」「consumers」、2000年以降では「peers」などなど、です。今お手伝いしている論文では「individuals with mental health difficulties(精神健康に困難を抱える人たち)」という表記です。  それぞれの呼称はそれぞれの時代で良かれと思って名付けられているはずなのですが、なんでこんなに変化し続けるのか、と考えると、やはり、差別や偏見によってもともとの言葉の意味が歪められ、そこから脱却すべく名前を正して、ということが繰り返されているということなんだと思います。  呼び名をコロコロ変えても、その背景にある思いや態度が変わらなければ何も変わらないとも思ってましたが、でもやっぱり「名前」と「中身」って密接不可分なのもので、名前もやっぱり大事なんだな、と最近思うようになりました。  またしても登場の安冨歩先生(「 東大話法

マイケル・ジャクソンとの出会い(4度目)

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今朝、ふと思うことがあってマイケル・ジャクソンの YouTube を見てたら、鳥肌がたったり目頭が熱くなったりして、なんていうのか、本当に感動してしまいました。もちろんマイケル・ジャクソンの存在はずっと前から知っていたし、曲もビデオも知っているのがいっぱいあったけど、なんで今まで気付かなかったのかな。。。 マイケル・ジャクソンとの最初の出会いは、たぶん小学生の頃のテレビで、「BAD(1987年)」のころ。「かっこいい」と思った記憶はあって、数年後の「Black Or White(1991年)」はレンタルビデオ屋さんでCD借りて聞いた記憶があります。 で、2回目の出会いは高校に入ってからで、Hiphop を聞くようになって、その元ネタとして Jackson 5 の曲に出会った時。大人のマイケルしか知らなかったので、子どもの頃のマイケルを見て「このマイケル・ジャクソンは、あのマイケル・ジャクソン!?」と驚いた記憶があります。で、この頃はまさに中二病まっただ中なので、売れてる時点でかっこ悪い、商業的に成功してるだけで信用できない、くらいに思ってて、マイケル・ジャクソンもそんなに興味がなかったわけですが、「I want you back(1969年)」とか好きで、売れてても良いものは良いんだ、ということを知った曲です。 で、3度目の出会いは、2000年以降のテレビワイドショーで、少年への性的虐待疑惑とか、裁判とか、整形に失敗したとか、赤ちゃんを窓の外に出してブラブラしたとか、そういうところで時々名前を見てた時。「スーパースターは大変なんだなぁ」「変わった人なんだなぁ」と思ったりする程度。 で、最近になって4回目の出会い。ここ数年、僕の知っている面白い人、尊敬する人、素敵な人、こういう人たちがマイケル好きであることが多くて、これは何か僕の気づいていないマイケルの魅力があるに違いないと思うようになってたんです。 一番最近だと、安冨歩先生。ブログのタイトルがもろ「 マイケル・ジャクソンの思想(と私が解釈するもの) 」だったりするのですが、 その死によってはっきりしたと私は考えるが、もしイエススという歴史上に存在したある人物を「救世主」と呼ぶのであれば、マイケルは「救世主気取り」だったのではなく、それは社会的現象としての「救世主」そのものなのである

足元を見る

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毎日写真を撮っていると、知らず知らずと同じような被写体を同じようなアングルで繰り返し撮ってることがあって、今日気づいたのは、自分の足元写真。自分の足元を見るのが好きらしい。 ところで、なんでぼったくりのことを「足元を見る」って言うのか。 駕籠舁き(かごかき)や馬方(うまかた)が旅人の足元を見て疲れ具合を見抜き、それによって値段を要求していた。客は法外な値段であっても疲れていればその金額で了承してしまうことから、相手の弱みにつけこむことを「足元を見る」や「足元につけこむ」と言うようになった。 gogen-allguide.com/a/ashimoto へぇ。商売ってそもそもこういうことですよね。で、なんで「ぼったくり」っていうのか。 ボッタクリ(ぼったくり)とは、店側の客への不正行為で、商品やサービスを相場を大幅に上回る価格で提供し、客を欺くことを指す。 語源は米騒動の際の暴利取締令にて「暴利」を活用させたものであり、しばしば短縮されて「ボッタ」、動詞として「ぼったくる」「ぼられる(ぼる)」と表現される。 ボッタクリ - Wikipedia へぇ。ま、自分の足元ばっかり見てたら世話はない。

佐藤くんの話

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今まであまりブログやTwitterに書いたことがないが、実はサウナが好き。お正月の不摂生から脱出すべく昼間からサウナに行った。国道沿いのいわゆるスーパー銭湯だ。地元なので小中高生の頃の同級生に出会うことは珍しくなく、この日は高校の同級生と思われる顔を湯気の向こうに見つけた。彼の名前を仮に佐藤くんとする。  高校生の頃の佐藤くんは、休み時間も数学の話ばっかりしてるような数学オタク。おちゃめなところもあってみんなに好かれてるけど、分厚い眼鏡をかけてて、寸足らずのズボンをはいてて、女子にモテる感じではないけど、本人も女の子より数学の方に興味がありそう、そんな男子。高校卒業以来会ってないので十数年ぶりの再会だ。  サウナで同級生に会った場合、特に親しい友人でもなければ声をかけないし、久しぶりの再会がお互い全裸なのもちょっと気が引けるので、いつもは気づかないふりをして視線を合わすこともしない。この佐藤くんも「特に親しい友人」ではなく、いつものように気づかないふりをしていたけれど、なぜかふと懐かしい気持ちになってしまって声をかけたくなった。  湯船につかる佐藤くんに背後から近づいて隣に座って、「佐藤くん?」と声を出す直前に横顔を至近距離で見て、これは別人なんじゃないかという思いが頭をよぎって声を飲み込む。湯船の反対側に移動して正面から顔を見てみると明らかに別人。佐藤くんではないし、先ほど湯気越しに見た佐藤くんと思しき人ともまた違う人。お風呂の中を見回すもそれらしき人はおらず、ちょっとがっかりしてお風呂を出る。  服を着て銭湯の建物の外に出て、駐車場を横切って車に向かう途中、川の向こうの空き地に佐藤君を見つけた。空き地には、小さな古いバスが止まっていて、その手前に佐藤くんを含む十人ほどのグループが焚き火を囲んで輪になってフォークダンスを踊っている。十人は男女がほぼ半分ずつで、女性はなぜか白人の少女ばかり。男性の顔を見ると、そのほとんどが知っている顔で、小中高生の頃の同級生。みな十年以上会っていない同級生で、卒業後に婦女暴行罪で逮捕され収監されていたという噂のAくん、いじめられっ子だったBくん、お父さんの会社が倒産して引っ越していったCくん、お母さんが自宅で自殺しているところを目撃してから学校に来なくなったDくん、その後の様子が気になっていて会いたい同級生たちが国道

2012年の抱負

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 2012年の抱負は、 12kgやせる。 歯医者に行く。 本を24冊読む。 だ。 趣味がダイエット&リバウンドみたいなところもあって抱負でもなんでもないけれど、2010年の夏には66kg程度だった体重が、1年半かけてじわじわ増えて今75kg。過去最高 (キリッ。山を走って炭水化物を減らして63kgを目指す。 歯医者。 2010年 も 2011年 も抱負に「歯医者に行く」と書いてて行ってない。。。簡単なことなのに。自由になる時間ものすごいあるのに。今年こそ行く。 で、本。ネットのナナメ読みばっかりしてて長い文章を集中して読むことができなくなってる気がして、あとiPhone やWiMax のおかげで移動中すらオンラインになってしまって本がまるで読めていないので、意識して読書の時間を作る。 つまらない抱負。。。ほんと、何がしたいか、何が欲しいか、どこへ行きたいか、それが分からない。