家族内呼称、精神障害、東大話法、RATM、唯識、ソシュール、ラーメンズ
お父さんが子どもに向かって「お母さんが...」と言うとき、この「お母さん」は話者の妻であって母ではありません。お婆さんが孫に向かって「お兄ちゃんが...」という時、それは孫から見たお兄ちゃんを指します。最年少者の目線に合わせる日本語の家族内呼称についてはたくさん研究されているようで、ググると面白そうな論文がいろいろ出てきます。家制度や役割について、ジェンダーについて、深層心理について、日本文化について、いろんな切り口の論文があります。
個人の名前があるのに名前で呼ばず、家族内の役割の名称で呼ぶあたり、日本の役割重視の文化の片鱗がうかがえ、また、最年少の目線に合わせる優しさが表れているとも見えるわけですが、これに関連していくつか思い当たることがあったのでメモ。
まず、僕のなじみのあるところで「精神障がい者」の呼称について。古くは「癲狂(てんきょう)者」、明治に入って「精神病者」、昭和になって「精神障害者」、最近だと「害」がひらがなになって「精神障がい者」。日常的に使われる言葉でも「当事者」や「利用者」「メンバー」いろいろあります。
英語でも同じで、20世紀に入るまでは「loons」「lunatics」「imbeciles」など「狂った人」の意味の言葉が用いられ、その後は患者や入院者の「patients」「inmates」、そして70年代移行「ex-patients」「survivors」「consumers」、2000年以降では「peers」などなど、です。今お手伝いしている論文では「individuals with mental health difficulties(精神健康に困難を抱える人たち)」という表記です。
それぞれの呼称はそれぞれの時代で良かれと思って名付けられているはずなのですが、なんでこんなに変化し続けるのか、と考えると、やはり、差別や偏見によってもともとの言葉の意味が歪められ、そこから脱却すべく名前を正して、ということが繰り返されているということなんだと思います。
呼び名をコロコロ変えても、その背景にある思いや態度が変わらなければ何も変わらないとも思ってましたが、でもやっぱり「名前」と「中身」って密接不可分なのもので、名前もやっぱり大事なんだな、と最近思うようになりました。
またしても登場の安冨歩先生(「東大話法」がAmazon の「社会一般」部門の売上1位なんですね!そうなると本を買いたくなくなるのはなぜなんでしょうか。図書館で借りようと思います。)、よく「名を正す」「言葉が歪む」といったことを書かれるのですが、たとえば、
本当にそうだと思います。 原発事故に関しても「事故」を「事象」、「老朽化」を「高経年化」、「汚染水」を「滞留水」、「放射性汚泥」を「廃スラッジ」、「後でどうなるか分からない」を「ただちに影響がない」などなど、実体に即さない名称を用いたごまかしがたくさんあるわけですが、「撤退」を「転進」、「全滅」を「玉砕」、「敗戦」を「終戦」と呼ぶのと本当にそっくりですね。
目を背けたくなる現実に、実体からかけはなれた名前をつけて目をそらすこと、一種の防衛機制なのかもしれないけど、やっぱり、臭いものに蓋してるだけだといつか破綻するんですね。
で、この「名を正す」というのは、元は孔子の「論語」だそうで、
ここによると、その続きは、 「名が正しくなければ、話の筋道が通らず、話の筋道が通っていなければ政治は成功しない。政治が成功しないと礼楽の文化は振興せず、礼楽が振興しなければ刑罰が公正でなくなってしまう。刑罰が公正でなくなってしまえば、人民は手足をゆったりと伸ばすことさえ出来なくなってしまう。」おお、その通り。。。
で、「名前」で思い出したのが、Rage Against The Machine の「Killing In The Name」。
歌詞をググッて見ると、繰り返しが多いので実質5行くらいしかなくて、
「name」には「大義名分」という意味もあるんですね。ま、そりゃそうか。で、大義名分の「名」は「名前」のことかと思ってググッてみると、
日常で使う「名前」よりも、ひとつ抽象度が高い「名前のあり方」とか「名前性」みたいな意味なんですね。
で、どんどん広がってしまいますが、「名は体を表す」っていう言葉があって、これのルーツは「名詮自性」という言葉だそうで、孔子より1000年近く後の中国で書かれた「成唯識論(法相宗が所依するお経)」の中に出てくる言葉。よく「名前が実体をよく表しているね」という意味で使う言葉ですが、本当はもっとややこしい話で、「名」は「体」の見え方と相互に影響し合う、というか、「名」は「体」そのものである、くらいの話で、 ソシュールのシニフィアン・シニフィエなどともつながる、というか、きっと同じようなことを言ってるんだと思います。
さて、まとめる気もなくなってきましたが、最後に、ラーメンズの「名は体を表す」。
中で出てくるバンコクの正式名称、
素晴らしい名前ですね。正確にかまずに言える小林賢太郎もすごい。で、「名」は「体」に単に添えられたものじゃなくて、「名」が「体」を作ることもある、その現場をコントで表現するとこうなる、みたいな作品にも見えます。ラーメンズの共感覚の鋭さってすごいですね。
で、何の話かというと、それをなぜそう呼ぶのか、それ以外の呼び方はないのか、そう呼ぶことでどういう影響を与えるのか、ちゃんと意識していきたいと思う、という話でした。「名」は私と世界の関係そのものだと思います。
個人の名前があるのに名前で呼ばず、家族内の役割の名称で呼ぶあたり、日本の役割重視の文化の片鱗がうかがえ、また、最年少の目線に合わせる優しさが表れているとも見えるわけですが、これに関連していくつか思い当たることがあったのでメモ。
まず、僕のなじみのあるところで「精神障がい者」の呼称について。古くは「癲狂(てんきょう)者」、明治に入って「精神病者」、昭和になって「精神障害者」、最近だと「害」がひらがなになって「精神障がい者」。日常的に使われる言葉でも「当事者」や「利用者」「メンバー」いろいろあります。
英語でも同じで、20世紀に入るまでは「loons」「lunatics」「imbeciles」など「狂った人」の意味の言葉が用いられ、その後は患者や入院者の「patients」「inmates」、そして70年代移行「ex-patients」「survivors」「consumers」、2000年以降では「peers」などなど、です。今お手伝いしている論文では「individuals with mental health difficulties(精神健康に困難を抱える人たち)」という表記です。
それぞれの呼称はそれぞれの時代で良かれと思って名付けられているはずなのですが、なんでこんなに変化し続けるのか、と考えると、やはり、差別や偏見によってもともとの言葉の意味が歪められ、そこから脱却すべく名前を正して、ということが繰り返されているということなんだと思います。
呼び名をコロコロ変えても、その背景にある思いや態度が変わらなければ何も変わらないとも思ってましたが、でもやっぱり「名前」と「中身」って密接不可分なのもので、名前もやっぱり大事なんだな、と最近思うようになりました。
またしても登場の安冨歩先生(「東大話法」がAmazon の「社会一般」部門の売上1位なんですね!そうなると本を買いたくなくなるのはなぜなんでしょうか。図書館で借りようと思います。)、よく「名を正す」「言葉が歪む」といったことを書かれるのですが、たとえば、
実体に即さない名称を与える、という行為は、人間の思考と判断力を奪います。それは、人間を人間として扱わない事態に帰結するのであって、どんなに瑣末に見えることだとしても、非常に危険なのです。
本当にそうだと思います。 原発事故に関しても「事故」を「事象」、「老朽化」を「高経年化」、「汚染水」を「滞留水」、「放射性汚泥」を「廃スラッジ」、「後でどうなるか分からない」を「ただちに影響がない」などなど、実体に即さない名称を用いたごまかしがたくさんあるわけですが、「撤退」を「転進」、「全滅」を「玉砕」、「敗戦」を「終戦」と呼ぶのと本当にそっくりですね。
目を背けたくなる現実に、実体からかけはなれた名前をつけて目をそらすこと、一種の防衛機制なのかもしれないけど、やっぱり、臭いものに蓋してるだけだといつか破綻するんですね。
で、この「名を正す」というのは、元は孔子の「論語」だそうで、
子路曰 衛君待子而為政 子将奚先 子曰 必也正名乎
(子路が言った。「衛の君主が先生に政治を任されたとすると、先生はまず何をしますか。」先生は言った。「きっと名を正す。」 )
ここによると、その続きは、 「名が正しくなければ、話の筋道が通らず、話の筋道が通っていなければ政治は成功しない。政治が成功しないと礼楽の文化は振興せず、礼楽が振興しなければ刑罰が公正でなくなってしまう。刑罰が公正でなくなってしまえば、人民は手足をゆったりと伸ばすことさえ出来なくなってしまう。」おお、その通り。。。
で、「名前」で思い出したのが、Rage Against The Machine の「Killing In The Name」。
歌詞をググッて見ると、繰り返しが多いので実質5行くらいしかなくて、
Killing in the name ofここによると、「burn crosses」の「はりつけ台を燃やす」人たちというのはKKK、「the badge」は警察官のバッジだそうです。国家権力による差別・暴力への怒りの曲なんですね。大義名分のもとに(in the name of)に行われている殺人、殺人は殺人じゃんよ、という。
Some of those that run forces are the same that burn crosses
And now you do what they told ya
Those who died are justified, for wearing the badge, they're the chosen whites
Fuck you, I won't do what you tell me
「name」には「大義名分」という意味もあるんですね。ま、そりゃそうか。で、大義名分の「名」は「名前」のことかと思ってググッてみると、
名(めい)とは、古代中国において一般的な意味としての「名前」とは別に、名前そのものが有すると考えられていた概念のこと。古代中国では、物が持つ「名」とその実体である「実」の相互関係について様々な説が出された。老子は、実は常に変化して名との関係を変えていくと唱え、荘子は、名は実の飾に過ぎないと説き、墨子は「名を以て実を挙ぐ」と唱え、荀子は「名を制して以て実を指す」と主張した。更に孔子は名と実の関係を正す必要性を唱えて「正名」の考えを提示し...
日常で使う「名前」よりも、ひとつ抽象度が高い「名前のあり方」とか「名前性」みたいな意味なんですね。
で、どんどん広がってしまいますが、「名は体を表す」っていう言葉があって、これのルーツは「名詮自性」という言葉だそうで、孔子より1000年近く後の中国で書かれた「成唯識論(法相宗が所依するお経)」の中に出てくる言葉。よく「名前が実体をよく表しているね」という意味で使う言葉ですが、本当はもっとややこしい話で、「名」は「体」の見え方と相互に影響し合う、というか、「名」は「体」そのものである、くらいの話で、 ソシュールのシニフィアン・シニフィエなどともつながる、というか、きっと同じようなことを言ってるんだと思います。
さて、まとめる気もなくなってきましたが、最後に、ラーメンズの「名は体を表す」。
中で出てくるバンコクの正式名称、
กรุงเทพมหานคร อมรรัตนโกสินทร์ มหินทรายุธยามหาดิลก ภพนพรัตน์ ราชธานีบุรีรมย์ อุดมราชนิเวศน์ มหาสถาน อมรพิมาน อวตารสถิต สักกะทัตติยวิษณุกรรมประสิทธิ์
クルンテープマハーナコーン アモーンラッタナコーシン マヒンタラーユッタヤーマハーディロック ポップノッパラット ラーチャターニーブリーロム ウドムラーチャニウェート マハーサターン アモーンピマーン アワターンサティット サッカタッティヤウィッサヌカムプラシット
イン神(インドラ、帝釈天)がウィッサヌカム神(ヴィシュヌカルマ神)に命じてお作りになった、神が権化としてお住みになる、多くの大宮殿を持ち、九宝のように楽しい王の都、最高・偉大な地、イン神の戦争のない平和な、イン神の不滅の宝石のような、偉大な天使の都。
素晴らしい名前ですね。正確にかまずに言える小林賢太郎もすごい。で、「名」は「体」に単に添えられたものじゃなくて、「名」が「体」を作ることもある、その現場をコントで表現するとこうなる、みたいな作品にも見えます。ラーメンズの共感覚の鋭さってすごいですね。
で、何の話かというと、それをなぜそう呼ぶのか、それ以外の呼び方はないのか、そう呼ぶことでどういう影響を与えるのか、ちゃんと意識していきたいと思う、という話でした。「名」は私と世界の関係そのものだと思います。