「させていただく」について
先日、メールに「○○させていただきます。」と書こうとして、ふと、違和感を感じた。この言い回し、話し言葉でよく使っているけど、書き言葉ではあまり見ないような気がする。これは間違ってるのかな、方言なのかな、と思ってググってみたらNHKのサイトに「視点・論点「させていただきます症候群」」というページがあった。
「させていただきます」は、明治の文学作品にも確認される言葉です。しかし、現在、この「させていただきます」については、批判的な意見もあります。紋切型だ、慇懃無礼だ、卑屈だ、許可した覚えはない、などです。さらに、使いすぎる人を「させていただきます症候群」と呼ぶ人もいます。「させていただます」のどこが批判されているのでしょうか。というわけで、5つの類型に分けてその違和感が説明されている。要約すると、
- すっきり話そうよ
「させていただく」は「いたします」で代用可能。 - 誰を立てているの?
「させていただく」は「させてくれる人」を立てる敬語なので、「課長をさせていただいています」と言ってしまうと社外の人に対して身内の上司を立ててしまう。 - だれに許可をもらったの?
「させていただく」は、だれかの許可を得て行動していることを示唆する言い回しだけど、誰に許可をもらっているのか不明。「努力させていただきました」って、自分で勝手に努力してるんじゃないか。 - 自分勝手すぎるよ
相手に迷惑をかける行為と「させていただきます」という言葉は合わない。「突然ですが、今日でバイトを辞めさせていただきます」は、一見したところ丁寧な言い回しに見えて、一方的に通告している。 - 「さ」はいらないよ
「休まさせていただきます」は「休ませていただきます」でよくて、不要な「さ」が入った「さ入れ言葉」とも呼ばれている。
近江を語る場合、腑に落ちた。この背景を踏まえれば、NKHのサイトの解説に出てくる5つの違和感がどれもすっきりする。
「近江門徒」
という精神的な土壌をはずして論ずることはできない。門徒寺の数も多く、どの村も、真宗寺院特有の大屋根を聖堂のようにかこんで、家々の配置をきめている。この地では、むかしから五十戸ぐらいの門徒でりっぱな寺を維持してきたが、寺の作法と、講でのつきあい、さらには真宗の絶対他力の教義が、近江人のことばづかいや物腰を丁寧にしてきた。
日本語には、させて頂きます、というふしぎな語法がある。
この語法は上方から出た。ちかごろは東京弁にも入りこんで、標準語を混乱(?)させている。「それでは帰らせて頂きます」。「あすとりに来させて頂きます」。「そういうわけで、御社に受験させて頂きました」。「はい、おかげ様で、元気に暮させて頂いております」。
この語法は、浄土真宗(真宗・門徒・本願寺)の教義上から出たもので、他宗には、思想としても、言いまわしとしても無い。真宗においては、すべて阿弥陀如来――他力――によって生かしていただいている。三度の食事も、阿弥陀如来のお蔭でおいしくいただき、家族もろとも息災に過ごさせていただき、ときにはお寺で本山からの説教師の説教を聞かせていただき、途中、用があって帰らせていただき、夜は九時に寝かせていただく。この語法は、絶対他力を想定してしか成立しない。それによって「お蔭」が成立し、「お蔭」という観念があればこそ、「地下鉄で虎ノ門までゆかせて頂きました」などと言う。相手の銭で乗ったわけではない。自分の足と銭で地下鉄に乗ったのに、「頂きました」などというのは、他力への信仰が存在するためである。もっともいまは語法だけになっている。
かつての近江商人のおもしろさは、かれらが同時に近江門徒であったことである。京・大坂や江戸へ出て商いをする場合も、得意先の玄関先でつい門徒語法が出た。
「かしこまりました。それではあすの三時に届けさせて頂きます」
というふうに。この語法は、とくに昭和になってから東京に滲透したように思える。明治文学における東京での舞台の会話には、こういう語法は一例もなさそうである。
自分が生きてるんじゃない、生かされているんだ、という思想が背景にあるので、「(他力に)させていただく」は「(自力で)いたします」で代用できるものでは全然なくて、「すっきり話そうよ」と言われても、自分も社会も人生もそんなにすっきりしたものではない。
「誰を立てているの?だれに許可をもらったの?」阿弥陀如来だ。「阿弥陀如来」は「はかり知れない大きな真実」のような意味かと思うけど(そう言い換えてしまうとちょっと軽薄な感じがしてしまうけど)、少なくともここでは、相手や上司を立てているのではなく、全く次元の違う方向に向かった敬意が込められているわけで、確かに、何も知らないと違和感があるかもしれない。
「自分勝手すぎる」まぁ、確かに「やめさせていただく」って、一方的な通告だし、相手への敬意が感じられないかもしれないのだけど、実際に上方の人が「やめさせていただく」なんて台詞を使う時は、相手への敬意なんて込めていない場合が多いのではないだろうか。漫才のオチの決まり文句に「やめさせてもらうわ!」っていうのがあるけど、あれは「こんなアホらしいことやってられるか、もうおしまいや!」くらいの意味なわけで、「やめさせていただく」なんて言葉を吐かれる側にもそれなりの理由があるのかもしれない。
そして、不要な「さ」が入った「さ入れ言葉」。「休まさせていただく」は、自分が休むんじゃなくて、上司が私を休ませる、さらに、その上司の行動の原因は他力であるので、他力が上司に私を休ませる、という意味で、使役動詞「す」の未然形の「さ」が入った二重使役なんだろう。
というわけで、
- 紋切型だ → たしかに形骸化してる
- 慇懃無礼だ → 敬意の方向にそもそも誤解がある
- 卑屈だ → 他人に対して卑屈なのではなく他力に対して謙虚
- 許可した覚えはない → あなたに許可を求めた覚えはない
ああ、すっきりした。
NHKのサイトのせいで、あやうくこの味わい深い言い回しを放棄してしまうところだった。これからは「させていただく」を積極的に活用させていただきます。