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Showing posts from February, 2010

白と黒で振り返る

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過去を振り返っている暇などありませんが、報告書を淡々と書く作業はやはり苦痛なのでちょっと息抜き。 写真ブログ5周年 記念事業ということで、5年間の写真を掘り起こします。大掃除をしているときに、写真アルバムに手を着けるとそこで掃除が終わってしまうという経験はよくあることですが、デシタル写真でもそれは同じこと。息抜きのつもりが息がつまるほどに集中してしまった、なんてことにならないようにサクっと振り返ります。とはいえ、5年分の写真からいくつかピックアップするのは大変な作業なのでテーマを絞ります。今日は白黒写真。 白黒写真、フィルム写真のように撮影前に白黒と決めているわけではありません。カラーで撮った後、画面上で白黒にしたりカラーに戻したりしてから白黒にした、というものばかりです。白黒にするというのは膨大な量の情報を捨てる作業です。「平均30歳(SD=10)」をわざわざ「30歳以上が半数」に書き換えるようなものです。なんでそんなことをするのかというと、「30歳以上」であることに意味なり表現したいことがあるからということですが、これは写真の話、いちいち言語化された意図があるわけではありません。そのあたりに注目しながら、報告書を書きながら、振り返ってみたいと思います。 綿棒、なんで白黒にしたかなぁ。道具は生活感の滲むものとそうでないものに二大別されるわけですが、綿棒って分類が難しいポジションにいるんですね。カラーにすると光の色が伝わるわけですが、暖色だとアットホームな感じ、寒色だと医療現場みたいな感じ、そういう情報が付与されてしまうんですね。そういう情報を省きたかった、綿棒そのものに注目したい、そういう気持ちが白黒にさせたんだと思います。ほんとかよ...。 研究所の喫煙所。屋外に放置されてるスチール棚の上のトカゲです。錆びてて茶色い天板に、トカゲも子供なりに擬態して茶色かったように思います。せっかくの保護色を白黒にして台無しにする、そういう写真です。 写真は時間を止めます。時間を止める道具で時間の流れを撮るっていうのは、断面図で奥行を表現するとか、平面上で立体を表現する、みたいなことで、ちょっとした難題です。平面で立体っていうと、等高線で地形の起伏を表すなんていうのがあって、等高線の間隔で傾斜が表現できるわけですが、この写真は、露光時間内に移動する距離の違いで時間の流れの早さを

5周年

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2月26日、 写真ブログ を始めて今日でちょうど5年です。1826日、1826枚です。写真を保存しているFlickr には、閲覧数やコメント数などから写真の「Interesting」さを算出する仕組みがあります。5周年記念ということで、この5年間で最もインタレスティングだった写真たちを振り返ります。 ざくろのマクロ写真。 これは某病院の当直室。なんでこれがインタレスティングなんだろ...。懐かしい写真です。 これはたしか西郷山公園。街灯と紙袋がなければもっといいのに。 電気コードに横から光が差して影を作ってる写真です。Flickr では「clever, elegant, beautiful! 」なんてコメントが入ってます。ふふ、どうもどうも。 江戸川の河川敷の野球場。ノーヘル。学位論文書いてる時、研究所で朝を迎えて散歩して帰った時。 大学。2006年、修士論文書いてた時かな。 白い部分が壁で薄い水色が床、よく見ると床にクリアフォルダが落ちてる、っていう写真です。 風にたなびくジャケットとハエの温度差が素敵。 顔とか色とか。 豆千花さんと佳つ幸さん。ルクセンブルクの方から「the geisha seems to be Mamechika and the maiko Katsuyuki. 」なんてコメントが入ってて驚きました。有名な方々なんですね。 というわけで、5年間の写真の中から Flickr でインタレスティングだった写真たちでした。これからも淡々と続きます。どうぞよろしくお願いいたします。

春が来た!花粉と一緒に...

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春の陽気です。春の兆しを感じつつも花粉症の季節にはまだ早い、そんな季節が好きです。って書こうと思ったら、午後から鼻がムズムズしてきました...。花粉症フリーな春を満喫できたのは半日だけでした。 1995年の大飛散から症状が出始めた、花の95年デビュー組なので、今年で16回目の花粉症です。 キューブラー・ロス のモデルでいうと、 否認(自分が花粉症だなんて嘘ではないのかと疑う段階) 怒り(なぜ自分が花粉症にならなければならないのかという怒りを周囲に向ける段階) 取引(なんとか克服しようと取引をしようと試みる段階。何かにすがろうという心理状態) 抑うつ(なにもできなくなる段階) 受容(自分の花粉症を受け入れる段階) 16年間、否認と取引と怒りと抑鬱を行ったり来たりしています。受容とか意味がわかんない。

右往左往も一段落

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東京千葉ツアーがおしまい。これで右往左往の調査ツアーも一段落。 これから1週間、集計、分析、報告書です。これまでもやってたことではありますが、このようなまとまった調査報告書はシロシベとしては初めて。従来の「書きゃあいいんでしょ、書きゃあ。」というなげやりな気持ちは全くありません。初心者の初々しい気持ちに立ち戻って気合を入れて書きます。

通りこすと大丈夫

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シロシベ初の年度末、本当によく働いています。何だかすでにずっと大昔のような感じがしますが、 先週三重に行って 以降の近況メモ。 この前買った質的研究の本 、読み始めて数日後に、この本の著者の先生からシロシベ宛にお仕事依頼のメールをいただきました。びっくり。ブログを見て思い出していただいたのか、単なる偶然か、どっちにしてもすごいことです。三重から戻った直後はこのお仕事に集中。 で、土曜日の昼過ぎ、関西空港に向かって出発。これは京都駅。 空港の風景ってなぜかおもちゃみたい。 関西空港から飛行機に乗って、 北海道の千歳空港へ。 雲の上からの夕焼け。 で、千歳空港から電車で2時間かけて帯広に到着。きっと綺麗な景色が見える路線だと思うのですが、もう真っ暗で何も見えず残念。極寒の大地を想像してドキドキしていましたが、思っていたほど寒くもなくちょっとがっかり。 日曜は朝から夕方までシロシベとして調査。人前でマイクを使って、「皆様おはようございます。株式会社シロシベの園と申します。このたびの...。」なんて具合に調査概要の説明などをしたりするのですが、いまだに「シロシベの園」のところで笑いそうになってしまいます。いつになったら慣れるのか。 で、帯広で初対面の方と名刺交換をして空き時間に雑談をしていると、初対面ではあるのですが、「わあ、それ読んでます。わあ!それ僕です。○○さんご存じですか?わあ!実は...」といった感じで、今までにいろんな場所でそれぞれが関わってきたお仕事にお互い接していたとか、共通の知人が何人もいた、ということがよくあります。この領域に限ったことではないのかも知れませんが、精神保健関係の研究者の世界って研究者人口が小さいのか、こういうことがよくあるような気がします。素敵でもあり怖くもあり。 日曜の調査は無事に終わって夜の飛行機で羽田へ。 月曜の夜明け前の新橋。で、月曜、火曜と会議会議会議。 この間に、投稿していた論文の査読結果が返ってきました。1100語のショートレポートに1300語のコメント...。頑張ります。もうちょっと落ち着いたら。 で、雪の降る東京を後に、最終の新幹線で妙に高いテンションで滋賀に戻ってきたのが昨日。今日と明日でこのツアーの後片付けと今週末の準備。金曜に東京で会議とヒアリング、土曜に最後の調査、来週1週間で調査報告書を書いて月末納品。 このツ

Z

おちもドラマもありません。三重県の津の海です。海の近くに行くとどうしても見に行きたくなってしまいます。

お葬式

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今日初めて僧侶としてお葬式に参加しました。何をどう感じたのか、何をどう考えているのか、まだよく分かりません。今日は薄い雲の隙間に青空が見える日、日中は寒さもやわらぎ穏やかな日でした。

はじめての質的研究

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質的研究の勉強を始めます。 超大雑把に説明してしまうと、質的研究は量的研究と対をなす概念で、「量」は現象を数字で表現できる形にして分析する手法、「質」は生の現象そのものを言葉で分析する手法、です。たぶんそういうことです。で、シロシベが関わることが多い精神保健の領域では、現在はいろんな意味で量的研究がメインストリームです。で、今まで個人的に質的研究に興味を抱きつつも、直接触れる機会がなくて傍観しているだけでしたが、ここにきてインタビューを分析(ってほど大したことはしませんが)する必要にせまられ、いい機会なのでちゃんと勉強することにしました。 で、「 はじめての質的研究法 」を昨日amazonで買いました。今日届くのですが、届く前にウェブで予習です。 Wikipedia のページ には、質的研究への批判と反論がまとめられていて、ザバっと引用すると、 質的研究への批判には以下のようなものがある。 解釈し続けるばかりで実用性、応用性、実証性に欠ける。 判断の恣意性、主観性が高く、客観性があるかどうかが疑わしい。 善悪や美醜をめぐる価値判断も扱っている。 中立性を欠く。 再現性が低い。 元になったデータの全容が第三者にはわかりづらい。 質的研究を擁護する立場の主張として、 研究・教育などで一定の貢献を果たしている。 未知で複雑な現象は量では適切に扱えない。 複雑な物事に関する総合的判断を行うためには恣意性とつきあっていかなければならない。 定量的研究にも様々な恣意性がある。 恣意性との付合い方を考えるべきで、恣意性の排除だけが望ましいアプローチではない。 価値判断を徹底して控えることは、研究者が既存の価値観に対して無批判になることと同じ。 どっちの主張もおっしゃる通り!って感じですが、なんだろうか、精神保健の領域などに限っていえば、そもそもが心の健康みたいな雲をつかむような話なので、なんていうか、どっともどっちっていうか、どっちも大事っていう感じはするんです。しかも、心の健康を扱う上では、考えるまでもなく善悪や美醜、幸福みたいな「価値」がすごく大事で、価値を扱わなきゃ意味がない領域でもあるわけで、ちゃんとこの手法を学びたいと思うわけです。 これは、個人として世界を見つめる眼差しのチャンネルを増やすという意味でも、シロシベとして扱える仕事の幅を広げるという意味でも、とても重要な

Endorphin Dragon

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朝走っている山道、善勝寺から山に入って北向岩屋十一面観音を通過して雨宮龍神社で折り返して石馬寺に降りて、という、字面を見るだけでリリジャス・アンド・スピリチャルな雰囲気が漂うコースなわけです。 GPSでコースを測る前に、ググって事前調査です。 北向岩屋十一面観音は、 東近江市のサイト によると JR能登川駅南方の繖山(きぬがさやま 標高267m)山頂にある厳窟内の石造りの観音(像高55cm、光背30cm、蓮座高6cm)が北向観音と呼ばれています。この観音は奈良時代に安置されたと伝わっており、合掌の手に数珠をかけておられる石仏は、あまり見かけないといわれています。 奈良時代って1300年前...。確かに、建物自体は新しいのですが、岩の隙間に安置された観音像の佇まい、プリミティブ!って感じで、普通の古さではないように感じてました。 で、次に 石馬寺のサイト を見てみると、  今からおよそ1400年前の推古2年(西暦594年)のこと推古天皇の摂政であった聖徳太子が霊地は近江国にあると占い永久に鎮護国家、興隆仏法、利福衆庶を祈る道場を求めて行く駒の蹄に任せて繖山(きぬがさやま)の麓辺りに来ると駒は歩みを止めて進まないので、ここの松の樹に乗馬をつないで山に登り、自らこの山の地形を観察されたところ、風光秀麗、瑞雲靉靆、深く感動して積年の望みをこの地に得たりとして、再び山を下ると、松の樹につないだ馬が、そばの池に沈んで、すでに石と化していました。聖徳太子はこの奇瑞を覧て感動、大いに霊気を感じ、直ちに山を『御都繖山(ぎょとさんざん)』と名付け、寺を建立して馬が石となった寺、つまり『石馬寺(いしばじ)』と号されました。 おお、聖徳太子、飛鳥時代...。 真偽はともかく、大変古いことは見れば分かります。で、中でも一番惹きつけられるのが折り返し地点の雨宮龍神社です。ググっても、雨乞いが行われていたってこと以外はよくわかりません。祠はそれほど古いものでもないように見えて、とても質素で、とりたてて何もない小さな神社ではあるのですが、立地的には一番良い場所で、名前も素敵で、コース折り返し地点っていうのも気分を盛り上げてくれます。 でまあ、今年に入ってから雨宮龍神社に通っているわけですが、このところ、どうしても龍が気になって仕方ありません。振り返ってみれば、幼少期より、ドラゴンボール、ドラゴンク