中陰に思う

110425

今日の午前中はお葬式でした。一昨日に癌で亡くなった40代の女性のお葬式です。そして今日は3月11日から49日だそうで、全国各地のお寺で四十九日法要が営まれていたそうです。

中陰とは、仏教で人が死んでからの49日間を指す。死者があの世へ旅立つ期間。四十九日。死者が生と死・陰と陽の狭間に居るため中陰という。浄土真宗では、故人は臨終と同時に仏になると考えるので、中陰期間は、故人に対する追慕、故人を通して「生と死」について考え、謹慎し求法の生活をする期間である。


ということなんですけども、「生と死」について本当に考えさせられています。

まず、粥川準二氏のブログで、
死者の総数は、もしいま行方不明となっている方がすべて亡くなっているとすると、3万人弱である。阪神大震災の死者は約6000人なので、その約5倍ということになる。しかし3万、6000という数字は偶然にもそれぞれ毎年の自殺、毎年の交通事故死とほぼ同数である。日本では毎年、阪神大震災と東日本大震災と同数の死者が出る災害が起きている、と解釈できなくもない。


そうなんですね。毎年日本では100万人以上死んでて、世界では5000万人以上が死にます。なのにそのことを大して気にせず暮らしています。なぜこの震災に関して僕は特別に動揺しているのかよく分かりません。

一時に亡くなった人の数が多いからかとも思いました。でも、先日発表された今年のピューリッツァー賞を受賞したワシントン・ポスト紙で驚いたのですが、去年のハイチ地震では30万人が亡くなってるんですね。

ハイチ時間の2010年1月12日16時53分にハイチ共和国で起こったマグニチュード7.0の地震。地震の規模の大きさやハイチの政情不安定に起因する社会基盤の脆弱さが相まり、死者が31万6千人程に及ぶなど単一の地震災害としては、スマトラ島沖地震に匹敵する近年空前の大規模なものとなった。

東日本大震災の10倍の人が亡くなっているのに気にも止めていませんでした。もちろんハイチは東北よりも遠くて、自分の生活に影響は感じられなかったし、接してる情報量がまるで違うけど、二人称の死が一つもないという点では同じです。3万人にひどく動揺し、30万人を気にもとめない、この違いが何なのかよく分かりません。

あと、考えさせられたのが、武田邦彦氏の「1ミリ、100ミリ、『直ちに』の差は?」

「人間はがんで死亡するのが、人口の約半分なので100人に50人はガンで死ぬ。だから放射線に被曝して100人に1人だけガンが増えたからといって問題ではない」これに対して、わたくしは次のような例を考えます。「どうせ人間は100人に100人が死ぬのだから、交通事故で死んでも問題はない。それに、交通事故の死者数はわずか10万人に5人だから、交通事故対策等はやらなくてよい」

どうせ人間を100人に100人が死ぬのだから交通事故で死んでも病気で死んで同じであると言えば、それはそうかもしれません。しかし、社会が交通事故を何とか無くそうとしているのは、人間が自然の中で死んでいくのは仕方がないが、幼い子供や青年が、また、仮にお年を召した人でも、やはり交通事故で亡くなるというのは悲惨なことだと日本社会は判断していると思います。


確かに、子どもが原発事故によって死ぬこととお年寄りが老衰で死ぬこと、全く違う感情を持ちます。では、死に方が自然だったら心穏やかなのか、と考えてみると、津波によって死ぬことは極めて自然な死に方なわけで、何なら病院のベッドの上で人工栄養でダラダラと生かされた挙句に息を引き取るよりも自然に思えます。そもそも自然な死に方って何なのかよく分かりません。よく分かりませんが、死の遠因が何なのかによってその死に抱く感情が全く違うことは違います。

若い人がたくさん亡くなっているからつらいんでしょうか。今日のお葬式でも思いましたが、亡くなった方が若いほどお葬式が悲痛になる傾向はあります。これも理由を考えるとよく分かりません。長く生きたら幸福で早く死んだら不幸というのは、まあ、そうですけど、ただ長けりゃいいっていう単純なことでもないように思います。

島薗進氏のツイート
放射線医学者が健康被害を過少評価してきたことについても、医療経済学的な発想から人の生命維持にかかるコストとそのメリットについての計算がなされてきたことやEBMの強調で確率論的な発想が医学界に浸透してきたことの影響の考察という課題─個人的な覚書。


コスト・ベネフィットの検討や確率論的発想は、医療資源の再分配の仕方を考える時などにはとても有益なものだと思います。でも一方で、このような発想では見落とすことがたくさんあるとも思います。最も見落とされがちなものが、アウトカムの意味の多様性だと思います。そしてこの見落としが「放射線医学者の健康被害の過少評価」の背景にあるような気がします。

死ぬまでの期間が延びる、症状が軽減する、機能が向上する、こういったアウトカムを評価するときに、それらがその人の人生にどのような意味を持つのかまではあまり考慮されません。生存を一日伸ばすのにいくらかかるか、何年で何%が死ぬか、QOL尺度の得点を1点上げるのにいくらかかるか、こういった計算は、死はできるだけ先延ばしするもの、症状は少なければ少ないほどいいもの、QOL尺度の得点は高ければ高いほどいいもの、という前提の上に行われます。それぞれの意味の差異はいったん棚上げしないとこのような計算はできません。一旦棚上げした意味の差異が棚の上に置き忘れられ、原発事故による癌とそうでない癌の意味の違いや死の意味の違いがないものとされていることが、「50%が50.5%になっても...」という言葉に表れるのだと思います。

原発事故による癌、これにしても、原発誘致に熱心だった人が孫を癌で亡くすことの後悔、長年反対運動をしてきた人が孫を癌で亡くす無念、たぶん全然違うし、実際のところは、賛成・反対なんてシンプルに分かれるものでもないわけでもっと複雑な意味をそれぞれの死が持ちます。そして、犠牲になる当の子どもにとってはそんな大人の事情なんて知ったこっちゃありません。

49日間、生と死についていろいろ考えさせられましたが、結局のところ何が何だか分かりません。

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