阿弥陀 と अमिता と immeasurable

120913 

先日の教師教習の講義の中で、「阿弥陀」という言葉についてのお話があった。

阿弥陀という言葉は、サンスクリットの「अमिता (amita)」が、中国にわたって「阿弥陀」と音写されて、日本にわたって「あみだ」と発音されるようになった言葉。サンスクリットと英語はともにインド・ヨーロッパ語族で兄弟のような言語なので、似ている言葉がたくさんあって、この「阿弥陀」についても、最初の「अ (a)」は、英語の「a-」や「un-」と同じ否定の接頭辞で「不」とか「非」の意味。後ろの「मिता (mita)」は、英語の「meter」や「measure」に対応する言葉で、「測る」とか「計る」の意味。なので、「阿弥陀」を英語で表すなら「unmeasured」や「immeasurable」などで、「計り知れない」という意味です、という話だった。

ほう...。「南無阿弥陀仏」というのは「無量の光と命に帰依します」という意味らしいけど、もっとくだけた日本語にしてしまえば、「あぁ、はかれない」とか「まじではかりしれない」「もう分かんないし、まかす。」とか、そんな感じなんだと思う。

お寺のお仕事、今ほとんどお手伝いできてないのだけど、おあさじ(晨朝勤行)だけは毎日(出張とか早朝に出かける時、時々寝坊する時以外)ちゃんと出るようにしてて、ここでは正信偈というものを読むのだけど、1回のおつとめで「南無阿弥陀仏」が38回出てくるのかな、まぁ、約40回ほど声に出して読む。毎日毎日「あぁ、はかれない。はかれない。」と。これからお寺の仕事をちゃんとするようになったら毎日数百回だ。考えてみれば「南無阿弥陀仏」が僕にとっては圧倒的な最頻出語だった(熱心な念仏者というよりは、単に引きこもって仕事してるから無口なだけだけど)。

で、この「Measure」だけど、シロシベの方でも頻出の重要単語で、こっちの Measure は、名詞では尺度とかスケールとも呼ばれる「ものさし」、動詞では「はかる」の意味で、健康状態や症状、態度や感情、性格などなどを数字で表す行為を意味する言葉だ。僕が今までにかかわった論文ではほぼ全てに出てくる言葉で、「○○は○○で Measure した」「この Measure の信頼性・妥当性は...」「こんな Measure を作った」などなど、誇張でもなく Measure だらけ、はかってばかりだ。

人の心のように、いかにもはかれなさそうなものを無理やりはかろうとするのでこういうことになってしまうのだけど、これってとても本質的な問題だと思う。アルフレッド・W・クロスビーの「数量化革命」という本が詳しいけど、はかって数字で表現するという「数量化」が近代化の大きな原動力の一つになっていると思うので、近代の限界を考える時に、やっぱりこの「数量化」、数字で表現しようとする発想が重要なポイントなんだろうなぁ、と思う。科学だけでなくて「お金」もまさに数量化だし。

で、僕がこの「阿弥陀」の話のなぜ衝撃を受けたかというと、毎朝何十回と「あぁ、はかれない。」と声に出して読みながら、昼間ははかってばかりで「はかった、はかれた」と言い張る、という生活を送っていたことに気付かされたからだ。

あと、「はからい」という言葉はきっと「はかる」と同じルーツの言葉だと思うけど、この「はからい」というのは仏教(特に浄土真宗?)では嫌われる行為で、それは煩悩であり迷いの原因だと言われる。一方シロシベ周辺では、戦略的であることや時代を先取りすること、計算高いことに高い価値があるようにも感じる。

昨日ブログに書いた「近代合理主義」と「伝統的宗教」の話に戻ると、僕にとっての「近代科学や合理主義」というのは「はかる、はかれる、はかりたい、はからえ」で、「伝統的な宗教」というのは「はかれない、はかっちゃいけない、はからっちゃいけない」なんだろうなぁ、と思う。どっちが正しいとかではなくて、どちらも学ぶことがたくさんある「世界観」なんだろうけども...。





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