CD買わなくても投票できるのなんでだろ〜♫ 滋賀県知事選について
CD買わなくても投票できるのなんでなんでしょうね。
政治には興味ないし、誰に投票したってどうせ結果には関係ないし、誰が当選しても僕には大して影響ないし、だいたい政治に熱心な人って何だかキモいし、くらいにずっと思ってて、今でもそう思ってるところが少しあるのだけど、さすがにこれはマズいのではないか、と思うようになってきた。
大人になったからなのか、311で目が覚めたのか、インターネットでの選挙運動解禁のせいでひきこもりの僕の目に触れるようになったせいか、なんだか分からないけど、今は急ぎの仕事がないので、滋賀県知事選について思うことを書いておこう。
小鑓隆史、坪田五久男、三日月大造、3人立候補されてて、小鑓vs三日月が競り合ってる形だそうだ。最近「社会はなぜ左と右にわかれるのか」という本を読んだばかりなのだけど、その言葉でいえば、小鑓さんは自公推薦の右(保守)、三日月さんが嘉田知事推薦の左(リベラル)、右と左の競り合いだ。
お二人の経歴をウェブサイトで見てみると、
右の小鑓隆史さん(47歳)は、
膳所高 → 京大物理工学 → 経産省 → 立候補
左の三日月大造さん(43歳)は、
膳所高 → 一橋経済 → JR西日本 → 衆議院議員 → 立候補
同年代で、ともに膳所高出身で、兄弟のようにそっくりの経歴、この二人が右と左から立候補するのがおもしろい。
幼少期のプロフィールを見てみると、小鑓さんは、「幼稚園に上がった後に母親を亡くし、兼業農家の父親も留守が多かったため、祖母や親戚、地域の人たちのつながりに助けられて育つ。小2から小6まで新聞配達」してたそう。一方の三日月さんは、「京都生まれで私立の幼稚園を出て、大学ではテニスサークル」で活躍されてたそうだ。田舎の昔ながらの人のつながりにポジティブな思いを持つ人が右に、都会の新しく開けた人のつながりにポジティブな思いを持つ人が左に、という感じだろうか。ひどく納得する。
で、どちらもおっしゃることは真っ当で、どちらも真面目そうで誠実そうで、どちらもあまりお友達になれなさそうな感じはするけど、まぁ、どちらでもいいし頑張ってください、と今までなら思ってたと思う。
なのだけど、今の安倍自民党は、右は右でも極右というのか、復古主義、ファシズム、コーポラティズム、なんていうのか分からないけど、ただの保守では全然なくて、とてもマズイ感じがする。
琵琶湖の近くでぼんやり過ごしていると、戦争の気配なんてまるで感じないのだけど、
きっとそうなんだと思う。 とはいえ、徴兵される、戦場に行く、ということがまだまだ具体的に想像できない。だけど、もはや現代では徴兵制も勲章も顕彰も不要で「マカロニ&チーズ」で兵隊が集まる、という國分功一郎の文章はとてもリアルで、戦争に参加するというのはこういうことなんだな、と思う。
原発のことをいろいろ知ると、↓これなんて本当に他人ごとではない。
滋賀県知事選で誰が当選しようとこの流れは止まらないんじゃないか、という気もするけど、この秋にある沖縄と福島の知事選にはきっと影響を与える。
(日刊ゲンダイって「えなりかずき巨根伝説」みたいな記事ばっかりなのかと思ってたけど、ちゃんとした記事も載せるんですね。)
それはいいとして、アメリカでオバマが大統領になっても戦争は止まらないし、やっぱり誰に投票したってしなくたって、どうにもならないんじゃないか、という思いはぬぐえない。なんだけど、311後に出会ったいくつかの言葉が脳裏をよぎる。 ガンジーの、
あなたのおこなう行動が、ほとんど無意味だとしても、とか、伊丹万作の、
それでもあなたは、それをやらなければなりません。
それは世界を変えるためにではなく、
あなたが世界によって変えられないようにするためにです。
多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。みながみな口を揃えてだまされていたという。私の知つている範囲ではおれがだましたのだといつた人間はまだ一人もいない。ここらあたりから、もうぼつぼつわからなくなつてくる。真面目なことを真顔で書いてしまった。いや、まぁ、どうせいつかはみんな死ぬわけで、どうだっていいとも思うのだけど、どうせ生きて死ぬんだったら...、と思わなくもない。というわけで、13日は投票所に行こうと思う。どうせ仕事する気もあまりしないだろうし。
多くの人はだましたものとだまされたものとの区別は、はつきりしていると思つているようであるが、それが実は錯覚らしいのである。たとえば、民間のものは軍や官にだまされたと思つているが、軍や官の中へはいればみな上のほうをさして、上からだまされたというだろう。上のほうへ行けば、さらにもつと上のほうからだまされたというにきまつている。
すると、最後にはたつた一人か二人の人間が残る勘定になるが、いくら何でも、わずか一人や二人の智慧で一億の人間がだませるわけのものではない。
(中略)
つまりだますものだけでは戦争は起らない。だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起らないということになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかはないのである。
そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。