家族が崩壊したくらいで人は不幸にならないし、ソーシャルメディアごときで人は幸福にならない、という話。

つながりについて考えています。

きっかけはこの2つの記事です。
1つ目が、asahi.com(朝日新聞社)の「家族に頼れる時代の終わり『孤族の国』」。
2つ目が、www.さとなお.com(さなメモ)の「ボクたちはその萌芽の最初期に生きている」。

どちらも、人と人のつながり方が大きく変わっていることについての記事です。
抜粋して引用すると、まずは朝日新聞、

国勢調査が行われた。今回の調査で、1人世帯が「夫婦と子どもからなる世帯」を上回るのは確実視されている。単身化は今後、さらに勢いを増す。単身化自体は個人の自由な選択の結果であり、否定すべきことではない。その半面、高齢の単身者は社会的に孤立し、様々なリスクに無防備になるケースが多いのも事実だ。単身化に加え、雇用が崩壊し、地域共同体の輪郭が薄れ、家族の中ですら一人ひとりが孤立している。同時に、極端な高齢化と人口減少も進む。東京23区では毎日、平均10人が孤独死する。

会社という「疑似家族」に人生の大半を委ねることができた世代は、まだいい。不安定な雇用に直面する若い世代は、人生前半で働く場から排除され、仕事と結婚の扉の前でたじろぐ。

ここで、立ち止まって考えたい。いま起きていることは、私たちが望み、選び取った生き方の帰結とはいえないだろうか。目指したのは、血縁や地縁にしばられず、伸びやかに個が発揮される社会。晩婚・非婚化もそれぞれの人生の選択の積み重ねだ。「個」を選んだ結果、「孤」に足を取られている。この国に広がっているのは、そんな風景なのだろう。誰もが「孤族」になりうることを前提にして、新しい生き方、新しい政策を生み出すしか道はない、と考える。


次にさとなおさん(佐藤尚之さん、電通の人なのかな。)、

平成に入り、都会を中心にお茶の間が崩壊し、マスメディアは次第に世論を形成する力を失い始めた。生活者は、男女「各」世代ごとに細かく分散していった。それぞれが個別に違う情報に触れるようになり、インターネットの普及はそれを助長した。情報が広く共有されることも減り、生活者は個々に別々の情報を持って情報洪水の世の中を渡り歩いて行かざるを得なくなった。全世代全員が知っている流行歌が消滅した。

お茶の間で家族に共有されていたもの。それが家族と代わる新しい「つながり」に共有されていく流れ。広告コミュニケーション的にも大きく根本的な変革であるが、これはもっとたくさんのものを変えてしまうかもしれない。

人々は「人と人とのつながり」という古くからあった関係性に戻ろうとしている。リアルな友人・知人、そしてネット上でつながっている人々と有益な情報などを共有することに幸福を見出すと同時に、彼らの共感や信頼の獲得も求めるようになった。つまり、お茶の間崩壊以降、男女各世代バラバラに分かれていた人々が、「つながり」によって再編成されようとしているのである。

そしてそれが人と人との新しい「つながり」に再編成され、しかもそれがネットという距離と時間を超えるインフラを通してであるとき、もうそこには国境はもちろん地域差も年齢差もない。国家という意識を持つことすら難しくなる。ただ純粋に「共感」があるだけである。

家族でも地域でも国家でもない、新しく編成された「共感によるつながり」。これを「知縁」と呼ぶならば、これは一周回って「血縁」や「地縁」を復活させるだろう。一度壊れた縁が、「つながり」によって再生されるだろう。

ボクはこう見えて慎重な方なので、手放しでソーシャルメディアを賞賛することはしない。でも、この流れの数十年先に、「共感」や「つながり」を元にした、いま想像すらしていない「再編成」が起こり、世界のあり方をいい方に根本から変えてしまうような予感に震えてはいる。それはきっと今日よりいい明日だ。You may say I'm a dreamer. But I'm not the only one. ボクたちはその萌芽の最初期に生きている。


どちらも、旧来の家族制度、地縁、血縁、組織のあり方が大きく変化しつつあること、人のつながり方の変化を書いているものですが、こうも見え方が違うのかと驚きます。ま、警鐘を鳴らすのがお仕事の新聞業者さんと、盛り上げてなんぼの広告業者さんなので、必要以上に悲観的だったり楽観的だったりするのかもしれませんが、それにしても随分と違います。

僕自身は、ウェブによってもたらされる新しい「つながり」が世界のあり方をいい方に根本から変えてしまうような予感に震えている一人ではありますが、一方で、朝日さんも電通さんも「すでに崩壊した」と書いている旧来のつながりの中に身を置いてもいます。

例えば昨日、同世代のお坊さんの新年会があったのですが、このお坊さんたちは、同業者であり、親戚でもあり、ご近所でもあり、同窓生でもあり、地縁や血縁だけでなく幾重にも縁がある人たちで、その上、この関係は僕が知っているだけでも4世代続いています。たぶんもっと古いです。お坊さん同士だけでなく、門徒さんとの関係も数世代続いて、門徒さんの家族では3世代以上の同居がいまだにデフォルトだったりします。こういうネットワークの中では、人が僕以上に僕のことを知っている、みたいなことが普通にあります。たぶん、滋賀県のお寺コミュニティは、このような古い形の「つながり」を日本の中で最も色濃く残している場所の一つです。古い形のつながりの煩わしさ、年の割にはよく知っている方だと思います。

で、つながりについていろいろ思うわけです。ネットでのつながりは、共感ベースであり、従来の煩わしさがなくて素敵なのですが、朝日の人が言うような「様々なリスク」への備えとして機能するかというと、たぶん補助的にしか機能しません。SNSで不安や疲労やいろんな葛藤を共感してくれる人と時間や地域をこえてつながれること、ネット通販、情報共有、とても素敵ですが、follower や friedns や Amazon がおむつを交換してはくれません。

でも一方で、家族をはじめとする従来の「つながり」があれば相互に助け合えるかというと、そうも思えません。実際に育児の場面などを思い出すと、親戚やご近所の人に助けられることは本当にたくさんあります。でもこれは健康な幼児の育児だからであって、重篤な病気や障害をもつ子ども、重い認知症をもつ高齢者、こうなってくると家族や地縁、血縁ではどうしようもなくなることが多いかと思います。大学院では「精神障害と家族」が主な研究テーマでしたが、ここで学んだことの一つは「家族は思いの外簡単に壊れる」ということです。余談ですが、民法第770条には、離婚の訴えを提起することができる4つの条件の1つとして「配偶者が強度の精神病にかかり、回復の見込みがないとき。」っていう記載があるんですね。強度って何だ、精神病って何だ、回復って何だ、とか言い出すを話がそれるのでやめますが、実際に病気が原因の離婚はたくさんあるし、親子の関係だって、離縁という制度はないにしても実質そうなっていることはたくさんあります。従来の家族、地縁、血縁のネットワークは、ちょっとした非常事態で簡単に限界を越えてしまいます。病児を間引き、高齢者を山へ遺棄し、精神病者を座敷牢に閉じ込めていた時代でこそ機能していたセーフティネットだと思います。

で、何が言いたいのか分からなくなってきました。バートランド・ラッセルが言うように「人間は孤独でもありえず、社会的でもありえない厄介な動物」で、人とのつながりは鬱陶しいものではありつつ、それがないと生きていけません。で、今、人と人のつながりのあり様が劇的に変化している時代です。家族や地縁、血縁に基づくネットワークが崩壊したくらいで人は不幸にならないし、ソーシャルメディアごときでは人は幸福にならない、と思います。今までにはなかった新しいつながりの形が生まれる時代に生きる幸運に感謝しつつ、難問山積の支え合う仕組みを何とかする、というあたりがイケてる現代人の態度なんだろうな、と思います。

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