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Showing posts from February, 2011

買い物は難しい

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最近の若者は消費しない、なんてことがいろんなところで言われてて、確かにそういう雰囲気は感じるし、僕自身もしない方だと思います。記号の消費の仕方で自分らしさを表現する、的な古い世代の消費の仕方には嫌悪感を覚えたりもします。で、物欲がないと公言しているのですが、実はいくつか欲しいものがあります。ずらっと思いつくままにあげると上のような感じで、上から順に、 アーロンチェア 、 Let's note 、 トロメオ 、 GR Digital 、 Gore-Tex のジャケット 、 タウンエース です。彩りがゼロですね。そして、おっさんみたいなラインナップですね。。。まあ、欲しいといえば欲しいのですが、別にいらないなぁ、という話です。 上から順にああだこうだ言っていきます。オフィスの椅子は欲しいんです。今、高校生の時に使ってた椅子で、もう座面が抜けつつあり、 諸事情 により使っている低反発クッションももはやただの座布団で、そろそろ買い換えてもいいと思うんです。おそらく人類がかつて経験したことのない程度に毎日長時間椅子に座っているので、ちゃんとした椅子がいいと思うんです。で、ちゃんとした椅子っていうと、このアーロンチェアとかが思い起こされます。でも、wikipediaのページによると、 1990年代後半においてインターネット・バブルの象徴であり、ビジネスの成功者や名士のオフィスに、さりげなく部屋に置かれたグラビアなどが多数みられた。テレビドラマなどにおいても成功者の象徴として、経営者役などの部屋にはアーロンチェアが置かれていることがある。長時間のデスクワーク作業を強いられる経営者やデザイナー、慢性的な肩こりや腰痛などの持病をもつ患者など、多くのユーザーに支持されるに至っており、高い満足度は口コミ・ネット掲示板などで広がっている。 とか書いてあるんですね。こんなことが書いてあると断然欲しくなくなるわけです。っていうか、「成功者の椅子」を欲しい人ってどういう人なのかな。あと、「持病」の中に痔が含まれるのか気になるところです。 で、Let's note 今も使ってて、使えてるから今は別にいりません。だけど、メインで使っているPCなので、こわれる前に買い換えておきたく、新しい世代の発表時に型落ちして値下がりするのを狙っている状態。 トロメオ。紙は使わないから卓上ランプはい

本人の意思の不在について考えられること

最近、認知症に関するお仕事が続いていて、「本人の意志の不在」ということについて考えさせられます。それでふと思い出した講義があります。大学の授業、あまりちゃんと出席していませんでしたが、一部ちゃんと出ていたのもあって、その中でとりわけ印象に残っていて、今またふと思い出したのが、 尾上圭介 という先生の日本語文法の講義です。 日本語の助動詞、「れる・られる」には下記のように多様な意味がある。 ・彼女の苦労がしのばれる (自発) ・彼は先生に叱られた (受動) ・この魚は生で食べられる (可能) ・社長はまもなく来られます (尊敬) 自発、受動、可能、尊敬、なぜこのようなバラバラの意味を一つの助動詞が持ち得るのか、という話を、半年かけてお話される講義でした。細かいことはもちろん覚えていませんが、結論を大雑把に書いてしまうと、全てに共通する意味は「出来(しゅったい)」である、というお話で、物事の主体が明らかでないまま、ふわっと湧き出るように自然発生的に現れる様を表す点が共通している、と。 自発は 「思われる」 「考えられる」 「感じられる」などの心理的動詞のみで使われる用例で、「思う」「考えられる」「感じる」に比べると、感じている本人の主観や主体性が遠くにおかれている感じが漂います。これが「れる・られる」のもともとの意味に近くて、思い、気持ち、考えがどこかから出て来るという意味をおびています。論文などで「考えられる」という書き方が多く使われたりするのも、主観や主体性を廃しているように見えるからでしょうか。考えてるのが著者であることにかわりはないわけですが。 受動。AがBを殴った、と、BはAに殴られた、は同じ意味で、能動文を裏返しただけで主体がはっきりしてそうな気もしますが、たとえば、「私は妻に先立たれた」や「運動会が雨にみまわれた」を「妻が私を先立った」や「雨が運動会をみまった」とはあまり言いません。妻の死や雨の主体や意図がぼやっとしてるんですね。他からの動作を受けるというよりも、むしろ、自分の意図が関与しない出来事によって自分がある状態におかれる、の意味なんですね。 可能についても、何かができる・できないというのは、そもそも「出て来る」と書いて「出来る」だったりしますが、本人の意思や努力とは関係のない非人称の何かによって何かが可能になる、みたいな表現をしているんですね。

オーフスの週末

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デンマークのオーフス(Århus)です。 こちらの皆様はがっつり週末を休まれるそうで、予定を入れることができず、オーフスで休日が発生しました。お店も週末は閉めちゃうところが多いんだそうです。いわゆる高負担高福祉の国で、消費税25%、所得税が38%~60%、自動車取得税180%だそうで、ホンダの小型車が300万円以上するとか。そのかわり育児、教育、医療、老人介護などは原則的に無料。日曜なので店は閉まってる、開いてても高い、というわけで、街をプラっとしたりホテルの部屋で作業したりしています。 市庁舎がアルネ・ヤコブセンの建築。照明器具がすごく素敵。今の季節、明るいのは朝8時から夕方5時くらいまでで、昼間も曇ってて薄暗いことが多く、この国の人は照明器具へのこだわりが強いのかな。 アロス・オーフス美術館(ARoS Århus Kunstmuseum) にある Ron Mueck の Boy 。細部までよくできてて驚いた。 オーフス大聖堂(Århus Domkirke) 。 というか、遊びに来ているわけではなくてお仕事なんです。一言で言うと「視察の補助」でしょうか。で、紙の資料を山ほどもらうわけです。1週間視察すれば広辞苑2冊くらいの体積と重さになります。というわけで今回から導入された ScanSnap S1100 。これほんといいです。サイズと重さは、ちょっと重めのサランラップくらいで、十分早くて、OCRも賢いです。これはすごい。 ザバザバ裁断して読み込んで捨てて帰るのですが、まあ、なんというか、無駄が多いですね。。。までも、日本に運んでからスキャンして捨てるよりはましか。 というわけで、今は日曜の13時。これから報告書の準備ビシビシ進めてまいります。

同じでもなく違うでもなく

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シロシベのお仕事でデンマークは オーフス(Århus) にやってきました。特にトラブルもなく到着できました。時差ぼけで早朝覚醒しているのでブログの更新。 今回はスカンジナビア航空、もちろん窓側です。 前からうすうす気づいてはいましたが、飛行機の窓から見える景色が好きなんですね。いくら見てても飽きないんですね。他の乗客の方を見ててもそんなに窓の外を見てる人はいないし、通路側を選ぶ人が多いし、多くの人はそんなに興味ないのかな。 夕焼け、朝焼け、何焼けっていうのかしらないけど、焼けるもいいですね。どのタイミングで日が沈んで上るのかよく分からないこともあって、見張ってないと見逃してしまうんです。このせいで飛行機での熟睡が妨げられているということに今回気づきました。 今回は、 綾屋紗月と熊谷晋一郎の「つながりの作法―同じでもなく違うでもなく」 を読んで、 リプリー(The Talented Mr. Ripley) という映画を見ました。空を見ながら気もそぞろに。 「つながりの作法」いろいろ考えさせられました。印象的な言葉のメモだけ。引用だけでなく僕の解釈もちょっとまざってます。 密室的な関係のなかでは、「健常者幻想(スーパーマンのような完璧な健常人をイメージしがち)」と「厳しい社会幻想(外の世界を過剰に恐れる態度)」という2つの幻想がふくれがる。この2つは生きていく上で最も大切な2つの「信頼」を損なわせる。「健常者幻想」は自分の至らなさばかりに目を向けさせ、自身への信頼を奪い続ける。「厳しい社会幻想」は無理解で無慈悲な社会の側面ばかりに目を向けさせ、なんとかなるさ、という世界への信頼を損なわせる。 べてるの当事者研究についての考察で展開される「治療の理論」「社会運動の理論」「研究の理論」。「治療の論理」はモデルとしての健常者に個人が近づくことが目指される理論、「社会運動の理論」は理解のない社会の変化が目指される理論、どちらも同化的圧力がかかるもので、多様性が否定されがち。研究の理論では、個々の当事者の日常の実践、エピソード、試行錯誤が1次データであり、多様性が否定されるどころか尊重され、かつ、ばらばらにならずに一つの方向を持ち得る。当事者研究の美点は、この「研究の理論」にあるのではないか。 AAで語り継がれる「平安の祈り」 神様 私にお与えください 自分に変えられないものを受