本人の意思の不在について考えられること
最近、認知症に関するお仕事が続いていて、「本人の意志の不在」ということについて考えさせられます。それでふと思い出した講義があります。大学の授業、あまりちゃんと出席していませんでしたが、一部ちゃんと出ていたのもあって、その中でとりわけ印象に残っていて、今またふと思い出したのが、尾上圭介という先生の日本語文法の講義です。
日本語の助動詞、「れる・られる」には下記のように多様な意味がある。
・彼女の苦労がしのばれる (自発)
・彼は先生に叱られた (受動)
・この魚は生で食べられる (可能)
・社長はまもなく来られます (尊敬)
自発、受動、可能、尊敬、なぜこのようなバラバラの意味を一つの助動詞が持ち得るのか、という話を、半年かけてお話される講義でした。細かいことはもちろん覚えていませんが、結論を大雑把に書いてしまうと、全てに共通する意味は「出来(しゅったい)」である、というお話で、物事の主体が明らかでないまま、ふわっと湧き出るように自然発生的に現れる様を表す点が共通している、と。
自発は 「思われる」 「考えられる」 「感じられる」などの心理的動詞のみで使われる用例で、「思う」「考えられる」「感じる」に比べると、感じている本人の主観や主体性が遠くにおかれている感じが漂います。これが「れる・られる」のもともとの意味に近くて、思い、気持ち、考えがどこかから出て来るという意味をおびています。論文などで「考えられる」という書き方が多く使われたりするのも、主観や主体性を廃しているように見えるからでしょうか。考えてるのが著者であることにかわりはないわけですが。
受動。AがBを殴った、と、BはAに殴られた、は同じ意味で、能動文を裏返しただけで主体がはっきりしてそうな気もしますが、たとえば、「私は妻に先立たれた」や「運動会が雨にみまわれた」を「妻が私を先立った」や「雨が運動会をみまった」とはあまり言いません。妻の死や雨の主体や意図がぼやっとしてるんですね。他からの動作を受けるというよりも、むしろ、自分の意図が関与しない出来事によって自分がある状態におかれる、の意味なんですね。
可能についても、何かができる・できないというのは、そもそも「出て来る」と書いて「出来る」だったりしますが、本人の意思や努力とは関係のない非人称の何かによって何かが可能になる、みたいな表現をしているんですね。
尊敬。敬語にもいろいろあって、まず「申し上げる」とか「して下さる」とか、あなたは私より上です、という言い回しがあります。他に、「お」とか「ご」を付ける言い回し、「御」はもともとは人が杵で土をつき固めならす様を表す文字だそうで、統治する、制御する、従わせる、の意味を持ちます。主導権はあなた側にあります、の意味から敬語に使われるようになったのでしょうか。で、「れる・られる」ですが、「社長が東京に行く」ではなく「社長が東京に行かれる」ということで社長の意図や意思がぼかされるんですね。あなたの意思はうかがい知れない、私めには思い及ばない、といったところから尊敬の意味になってるんですね。
というわけで、日本語では「れる・られる」でいろんな意味を表現できるわけですが、それらには「意図や主体性のおよばない自然発生的な大きな何かによって出来する」という共通の意味が織り込まれているという話です。
この、感情や行動や能力や関係性の表現に「本人の意思の不在」が底流するあたり、日本語や日本の思想の重要な要素だったりするんだと思うんですね。しかも、どこかから自然に出来したものの方が本人の意思より偉い、みたいな思想すら匂います。そもそも、日本語では主語が省略されることが多い、というか、そもそも主語はなかった、という議論もあるくらいで、人間の主体性とか意思とか意図とか、そのあたりをあまり重視しない、とらわれない、本人の意思など信用してない、もっと大きなものを見据えている、そんな雰囲気を感じます。
で、話は戻って、「本人の意志の不在」ですけども、本人の意思より医師の意思が重視されるとか、家族の都合で本人の意思が無視されるとか、社会の仕組みの不備で本人の意思がかなわないとか、そういうのは残念で改善の余地がありそうですが、かといって、本人の意思が何より重要、本人の意思さえあれば、みたいな考え方も今ひとつ腑に落ちなくて、本人の意思ってそんなに立派なものなのかなぁ、と思ったりします。少なくとも自分の意思に関してはそんなに立派なものだとは思えません。本人の意思なんてものは、刻一刻と変化し、ちょっとした出来事や物質で簡単に変化し、そもそも周囲との関係の中でしか形作られ得ないものです。だから、本人の意志の不在が問題になる場所っていうのは、本人の意思の不在というよりも、むしろ、本人と周辺のつながり方の問題だったりすることが実は多いんじゃないか、と思ったりします。
日本語の助動詞、「れる・られる」には下記のように多様な意味がある。
・彼女の苦労がしのばれる (自発)
・彼は先生に叱られた (受動)
・この魚は生で食べられる (可能)
・社長はまもなく来られます (尊敬)
自発、受動、可能、尊敬、なぜこのようなバラバラの意味を一つの助動詞が持ち得るのか、という話を、半年かけてお話される講義でした。細かいことはもちろん覚えていませんが、結論を大雑把に書いてしまうと、全てに共通する意味は「出来(しゅったい)」である、というお話で、物事の主体が明らかでないまま、ふわっと湧き出るように自然発生的に現れる様を表す点が共通している、と。
自発は 「思われる」 「考えられる」 「感じられる」などの心理的動詞のみで使われる用例で、「思う」「考えられる」「感じる」に比べると、感じている本人の主観や主体性が遠くにおかれている感じが漂います。これが「れる・られる」のもともとの意味に近くて、思い、気持ち、考えがどこかから出て来るという意味をおびています。論文などで「考えられる」という書き方が多く使われたりするのも、主観や主体性を廃しているように見えるからでしょうか。考えてるのが著者であることにかわりはないわけですが。
受動。AがBを殴った、と、BはAに殴られた、は同じ意味で、能動文を裏返しただけで主体がはっきりしてそうな気もしますが、たとえば、「私は妻に先立たれた」や「運動会が雨にみまわれた」を「妻が私を先立った」や「雨が運動会をみまった」とはあまり言いません。妻の死や雨の主体や意図がぼやっとしてるんですね。他からの動作を受けるというよりも、むしろ、自分の意図が関与しない出来事によって自分がある状態におかれる、の意味なんですね。
可能についても、何かができる・できないというのは、そもそも「出て来る」と書いて「出来る」だったりしますが、本人の意思や努力とは関係のない非人称の何かによって何かが可能になる、みたいな表現をしているんですね。
尊敬。敬語にもいろいろあって、まず「申し上げる」とか「して下さる」とか、あなたは私より上です、という言い回しがあります。他に、「お」とか「ご」を付ける言い回し、「御」はもともとは人が杵で土をつき固めならす様を表す文字だそうで、統治する、制御する、従わせる、の意味を持ちます。主導権はあなた側にあります、の意味から敬語に使われるようになったのでしょうか。で、「れる・られる」ですが、「社長が東京に行く」ではなく「社長が東京に行かれる」ということで社長の意図や意思がぼかされるんですね。あなたの意思はうかがい知れない、私めには思い及ばない、といったところから尊敬の意味になってるんですね。
というわけで、日本語では「れる・られる」でいろんな意味を表現できるわけですが、それらには「意図や主体性のおよばない自然発生的な大きな何かによって出来する」という共通の意味が織り込まれているという話です。
この、感情や行動や能力や関係性の表現に「本人の意思の不在」が底流するあたり、日本語や日本の思想の重要な要素だったりするんだと思うんですね。しかも、どこかから自然に出来したものの方が本人の意思より偉い、みたいな思想すら匂います。そもそも、日本語では主語が省略されることが多い、というか、そもそも主語はなかった、という議論もあるくらいで、人間の主体性とか意思とか意図とか、そのあたりをあまり重視しない、とらわれない、本人の意思など信用してない、もっと大きなものを見据えている、そんな雰囲気を感じます。
で、話は戻って、「本人の意志の不在」ですけども、本人の意思より医師の意思が重視されるとか、家族の都合で本人の意思が無視されるとか、社会の仕組みの不備で本人の意思がかなわないとか、そういうのは残念で改善の余地がありそうですが、かといって、本人の意思が何より重要、本人の意思さえあれば、みたいな考え方も今ひとつ腑に落ちなくて、本人の意思ってそんなに立派なものなのかなぁ、と思ったりします。少なくとも自分の意思に関してはそんなに立派なものだとは思えません。本人の意思なんてものは、刻一刻と変化し、ちょっとした出来事や物質で簡単に変化し、そもそも周囲との関係の中でしか形作られ得ないものです。だから、本人の意志の不在が問題になる場所っていうのは、本人の意思の不在というよりも、むしろ、本人と周辺のつながり方の問題だったりすることが実は多いんじゃないか、と思ったりします。