反原発の語り口について

一昨日から風邪をひいたのか熱を出し、寝ながら「現代思想2011年5月号 特集=東日本大震災 危機を生きる思想」を読みました。

3月11日以降、原子力発電に関する膨大な情報に触れ、その中で日本で原子力を利用をすることのメリットが何一つ見つからず、逆に、事故、健康被害、環境汚染、癒着、核廃棄物、コスト、持続不可能性といった問題ばかりが目につき、一刻も早く原発依存を止めて再生可能な自然エネルギーに移行すべきだと考えるようになりました。

でも、声高に反原発!と叫ぶ気持ちになかなかなれずにもいて、その理由は、今まで無自覚に電気を浪費しつつ原子力発電の危険を訴えていた人たちの声に耳を貸さなかった自責感もありつつ、それだけではなく、推進してきた人たちの言い分がまるで分からなかったことがあります。日本に原子力を導入し推進してきた人たちもきっと「良かれと思って」推進していた部分もあるに違いないのに、取り憑かれたように「安全です」「ただちに影響はありません」「必要です」と繰り返すだけで真意がつかめずにいました。

様々な情報にふれて朧気ながらみえてきたことは、導入当時は、というか広島・長崎の原爆投下10年も立たない1950年代から、原子力がわりと無邪気に「未来のエネルギー」として受け入れられていたらしいこと。ここで思い出すのが、横尾忠則氏のツイートで、
南三陸に住み、海ばかりを描いている女性の画家が、津波で多くの人の命を奪った海を今後、描くべきかどうかで迷っていた。そんな時、町長や知人が「津波の翌日の朝のきれいなあの時の海を描いて下さい」と言われた。この言葉には自然を敵対視しない日本人の自然観と芸術を信じる言霊が宿っている。
多くの命を奪った海を翌朝に美しいと思える感性はとても素敵だと思います。で、この感性が戦後アメリカに対しても発揮され、被爆国になってしまったやるせなさのはけ口としての原子力平和利用という考えがあり、そしてさらに原子力発電の運用能力は核兵器の運用能力に直接つながるものであって防衛のためにも必要という考えもあり、敗戦からの復興のために必要であり、日本が一等国になるために必要といった考えが根底にあるらしいことを知りました。

日本に核武装が必要だという考え方は僕にはちょっと理解しがたいものだけど、この間に第五福竜丸の事件を初めて知り、それもちょっと納得しました。
第五福竜丸は1954年(昭和29年)3月1日、米国の水爆実験によって発生した多量の放射性降下物を浴びた遠洋マグロ漁船の船名である。第五福竜丸は被爆後、救難信号 (SOS) を発することなく他の数百隻の漁船同様に自力で焼津漁港に帰港した。これは、船員が実験海域での被爆の事実を隠蔽しようとする米軍に撃沈されることを恐れていたためであるともいわれている。この背景には、当時の日本漁船乗組員の中には久保山を始めとして太平洋戦争で徴用され、戦場での体験が豊富な者が多かったため、米軍側が水爆実験の詳細を隠すために第五福竜丸を拿捕・撃沈する可能性が高いと判断したものとされる。
「SOS信号をアメリカに受信されたら拿捕・撃沈される」という危機感があった、という部分を読み、確かに戦争を知る世代には当然の危機感であろうし、当時なら核武装によって属国からの脱却を願う気持ちも分からなくはありません。

そして、この件に端を発する反核運動=反米運動、これを沈静化させたいアメリカの思惑と正力松太郎の思惑の利害が一致したり、オイルショック、二酸化炭素削減、その他様々な原子力利用の追い風が吹いて推進されてきた、という感じなんだろうと理解しました。

そして、国策として進められた原子力が巨大な利権の塊にブクブクと太ってしまい、時代遅れになっても超肥満ゆえメスが入らず、戦後、冷戦期の危機感などは風化し、今の原発に関わっている人が、原子力=核=国防、みたいな構図で原発の運用に関わっているとも思えず、安定した地位と高収入を守ることにしか興味がなくなっているというのが実態なんじゃないか、と思うようになりました。

で、思い出すのが、与謝野馨経済財政相の、
日本人の生活レベルをどんどん落としてよいならば、江戸時代に戻ることもできる。原子力は引き続き重要なエネルギー源であり、日本が電力生産を原子力に頼る状況から抜け出すことはできない。
という発言。戦時中に「君死にたまふことなかれ」と読んだ与謝野晶子のお孫さんの言葉とは思えず意味が理解できなかったのですが、原子力利用の根っこが、敗戦のトラウマひいては「欧米列強」へのコンプレックスだったとすれば、むしろ納得ができ、江戸時代というのも修辞ではなくわりと文字通りの意味で仰っているのかもしれないと思うようになりました。

国際政治や安全保障についてはよくわからないものの、「原子力で自立」というものにリアリティが感じられず、原発保有は防衛として機能するどころか、テロの標的として安全を脅かすものという側面の方が大きいように思うのですが実際のところどうなんでしょう。

で、繰り返しますが、一刻も早く全ての原発依存を止めて再生可能な自然エネルギーに移行すべきだと思います。多少の不便や一時的な経済停滞は大きな問題ではないように思います。エネルギー浪費に依存しない豊かな生活を提案することが先進国に求められていることだと思います。

孫崎享氏のツイートにもありましたが、
原発・石原:25日産経:石原知事は4期目の初日、「風車とか太陽光とか言うのはやさしいが、今の日本経済を支える電力の供給はできっこない」「今までと同じことをするしかない」と決意を語った。」残念ながらこのお年頃になると新しい概念入らない。
このお年頃に反原発を訴える時は、合理的な説得ではなく(原発推進に合理的で理性的な理由など今更なさそうなので)「おじいちゃんもう戦争は終わっているよ。みんな日本は素敵な国だって言っているよ。」という語り口が良いのではないかと思ったりするのですが、どうなんでしょうか。

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