「異型の王権」を読んで服装について考えた

網野善彦の「異型の王権」を読んだ。このところ「歴史」に興味が出てきたのだけど、その主な理由は、網野善彦の本が面白かったから。なんでこの人の本が他の歴史の本と違って面白いのか、「はじめに」の文章でちょっと明らかになった。
このような「身辺雑事」に関わる問題を取り上げることになんの意味があるか、という厳しい批判も依然として耳に入るこのごろであるが、しかしかつて高校教育の現場で、制服か自由服かをめぐって激論を交わした経験のある私にとって、この問題は決してどうでもよい問題とは思えないのである。服装のあり方が、人の心を深くとらえ、それを端的に表現するものである以上、人の心を問題にしようとする歴史学がそれを放置することは、むしろ重大な怠慢といわなくてはなるまい。
鶴見俊輔の解説によると、
権力者の交替としてだけでなく、おおきな身ぶり・身なりの変動として、鎌倉から南北朝への時代を見るこの見方は、民俗学と歴史学をむすびつける著者の方法である。「昔はこうだった」という証言を集めているだけで、歴史学とかかわりがないように考えられていた民俗学の方法は、何年何月何日に将軍がなくなったというような日付と、点対点的な対応を求められても、こたえを出せない。しかし数百年、千年の大きな区分によってとらえるならば、歴史把握の方法として活力をもつ。
学校の授業でならう「歴史」は、権力者の交替の歴史なんですね。今の権力者に興味を持てない僕が、昔の権力者の交替劇に興味を持てないのは当然のことで、網野善彦の歴史は、リアルな生活の場の歴史だから面白いんですね。

で、表紙の絵は、「融通念仏縁起絵巻」という15世紀の絵巻物の一場面で、このような絵の中の変な格好をしている人たちは何者なのか、この杖のような棒は何なのか、といった切り口で、異類異型といわれた人々への恐れや畏敬、蔑視や差別、位置づけの変遷を通して中世(おもに室町期)が描かれていきます。


網野善彦によると、現代と同様に、室町時代は「人間の社会と自然との関係の大きな転換」のあった時代だそうで、「15世紀以降の社会のあり方は私たちの世代の常識で、ある程度理解が可能ですが、13世紀以前の問題になると常識が通用しないかなり異質な世界がそこにはあるように思われます。」と。
鎌倉時代以前には見られない出自不明の農民・商人層の社会進出を可能とし、日本史上初めて顔が見える民衆を登場させた時代でもある。旧勢力の没落と新勢力の興隆の時代として捉えることができる。戦乱が続く時代だったが、経済面においては農業・工業ともに技術が向上し、生産も増大、内外の流通が盛んになった。 ja.wikipedia.org/wiki/室町時代
「顔が見える民衆」とか「内外の交流」とか、インターネットが登場した現代を形容する言葉と同じですね。これは文明の大きな転換期の特徴なのかな。

文明の転換期には婆娑羅のような派手な衣装が流行するのかな、確かにパリコレ(20世紀初頭から始まってる)とか奇抜だなぁ、と思うのだけど、昨日の東京駅で歩いている人たち服を見てると、ほんとみんな同じ地味な格好をしているんですよね。これは制服なのかってくらい。一昨年話題になってた「25年前と今年のJALの入社式」とかも驚くけど、なんだろうか、不景気とか就職氷河期とかそういう短いスパンの話ではなくて、数百年単位の目で見てもこの服装の揃い方って意味がありそう。

120924 

そういう僕も、完全な自由業であるにもかかわらず、昨日は白いシャツを着て黒いズボンをはいてたし、無個性な商用車を選んだり、名前を書く欄があるような帽子や靴を選んだり、「無個性であること」や「目立たないこと」を無意識に志向してるんですね。「服装のあり方が、人の心を深くとらえ、それを端的に表現するもの」であることは全くその通りだと思うけど、この今の僕の服装のあり方は、どういう心の表れなんだろうか...。

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