内山節の本を3冊続けて読んだ

原発事故の後の産、官、学、メディア、などなどの唖然とするような嘘や理屈にショックを受けた。それぞれの中にいる人はきっと真面目に仕事をしてるだけなのに何でこんなことになるのか、こんなことになってしまう仕組みの背景に何があるのか、ということを考えると、ここで「お金」が重要な役割を担っていることはすぐに分かるわけだけど、お金って何なのかよくよく考えてみればよく分からない。そこで、それまで全然興味のなかった「経済」に興味が出てきた。現代経済学とかそういうのではなくて、もっとこう、根本のところを考えている人の本が読みたい、ということで、内山節の本を3冊続けて読んだ。
内山 節(うちやま たかし、男性、1950年 - )は哲学者。高校卒業後、大学などの高等教育機関を経ることなく、書籍などで自らの思想を発表しながら活動する哲学する人で知られている。長らく大学などの研究職についていなかったが、2004年から2009年まで立教大学の特別任用教員としても活動していた。1970年代から現在でも、東京と群馬県上野村との往復生活を続けている。上野村では畑を耕し、森を歩きながら暮らしている。
経歴からしてグッとくる。で、まず「怯えの時代」。印象に残った言葉のメモ。
貨幣には、交換価値はあっても使用価値は持たない。なぜなら貨幣は食べることも着ることもできないからである。(中略)使用価値は有用性のことだけれど、ものの有用性は結びつきの中で生まれてくる。たとえば食べ物の有用性は人がそれを食べるという結びつきのなかで発生してくるように、衣服の有用性は人がそれを着るという結びつきのなかで生まれるようにである。しかもその有用性は、それを包む関係性の内容によっても変わる。たとえば孫と祖父母の関係の中では、「つまらないもの」であってもそれが孫から祖父母へのプレゼントとして提供されれば、祖父母にとっては大きな有用性をもつものにもなりうるし、逆に関係が悪化している人からのプレゼントであれば、どんなものでもゴミ箱に捨てられる有用性しかないこともありうる。使用価値の大きさは、その使用価値とともに展開する関係のあり方によって、大きく変化するのである。そしてそのことは、使用価値はそれ自体がもっている価値ではなく、関係のなかで発生する価値だということを示している。その意味で使用価値は関係的価値なのである。p97
ほんとそう。シロシベの仕事で見積りを作ることがよくわるわけだけど、相場があるような仕事ではなく、自分の時間を相手に売るような仕事なので、値段をつけることが本当に難しい。最初は新鮮でおもしろかったけど、3年目の今、この見積作成がものすごく辛い作業になってる。自分の価値を数字で表現することが嫌なのかと思ってたけど、それだけじゃなくて、大袈裟な言い方だけど、相手との関係の尊厳を傷つける行為だから嫌なんじゃないか、と思うようになった。うまく説明できないけど。ここはまたゆっくり考えたい。
「温かいお金」とは人と人の関係のなかで使用されるお金、あるいは人と人の関係のために使うお金のことである。(中略)経済システムや国家、社会のシステムと結びついている領域では、私たちは「冷たい貨幣」に振り回されることになるだろう。金融市場で動く貨幣、企業の売り上げ高、利益、市場で流通する貨幣、支給された年金、毎月の支出…。現代システムのなかで動いているお金はそのほとんどが「冷たい貨幣」である。p156
ここも強く共感する。お金は本当に簡単に人と人を結びつけるし、簡単にその結びつきを切る道具だと思う。そして、今の世の中で回っているお金のほとんどが、関係を切るために使われているように感じる。この温かいお金と冷たいお金は、安冨歩著「生きるための経済学」の「ビオフィリア・エコノミックス(ビオ経済学=生を志向する経済学)」と「ネクロフィリア・エコノミックス(ネクロ経済学=死に魅入られた経済学)」ともとても近い発想を感じる。

あと、興味深かったのが「無尽」。
無尽は、頼母子講とも、単に講とも呼ばれることもあった。中世に庶民がつくりだしていった講の伝統を引き継いでいるからである。人々が寺などに集まって仏法の理解などを深めていく講会が出発点らしい。そこから仏教儀式を司る集団に講の名がつけられていくようになった。涅槃講、地蔵講、念仏講、報恩講などは、伝統が残っている地域ではいまでもつづいている。p162
無尽は、原始的な相互扶助保険のような仕組みだけど、お寺がルーツになってるというのに驚いた。楽市楽座も最初はお寺の境内で行われていたらしく、日本の自由市場経済、保険、金融、ルーツはどれもお寺に関係してたんですね。お金って、人の関係のつないだり切ったりを加速する道具、縁の増幅装置みたいなものだと考えると、お寺が関係してたのは当然のことなのかも、とも思う。お金のことは、ますますちゃんと考えないといけない問題だと思うようになった。

で、次は、「貨幣の思想史―お金について考えた人びと」。これもおもしろかった。メモしておきたいところが多すぎるのでやめるけど、ウィリアム・ペティ、フランソワ・ケネー、ジョン・ロック、アダム・スミス、リカードゥ、J・S・ミル、マルサス、バウィルク、モーゼス・ヘス、ヴィルヘルム・ヴァイトリング、マックス・シュティルナー、カール・マルクス、ケインズ、などなど、お金とは?価値とは?価格とは?労働とは?ということを考えた人たちの葛藤を追体験できる本。

一つだけ長いけど引用しておくと、
ところで、人間の価値もまた、客観的、合理的には説明できないものであることを私たちは知っている。なぜなら、その人間の価値は、ある関係のなかで成立し、人間的な価値は関係の変容とともに非合理に変化し続けるからである。
労働力の有用性としての価値もまた同じである。労働力の価値は、労働過程として成立する関係的世界のなかで成立するものであり、だからA氏の労働力の価値は、ある労働過程のなかでは価値を発揮するが、他の労働過程のなかでは、ほとんど価値を成立させないということが生じる。すなわち人間のつくりだした関係が、その価値を成立させていくのである。
人間的な価値は、その価値を成立させる関係と一体のものであった。ここでも価値は固有のものとして存在するのではなく、関係が価値を生み出す。
そして、だからこそ、この価値は人間的なのである。なぜなら人々の営みとともに価値が成立し、人々の試みによって価値は変容していくことができるのであるから。ここでは価値が人間を支配していない。
このような世界に生きていた人々にとって、貨幣が価値基準になっていく過程は、自分たちの世界がこわされていくような不安をいだかずにはおれなかった。人間的なものを嘲笑するかのごとく振る舞う価値基準である貨幣が、自分たちの世界をヒタヒタと蝕んでいく。
しかも使用価値的な豊かさと、貨幣で表現された豊かさとは根本が違っていた。前者は関係のなかで生じる質的豊かさなのに、後者は、それを大量に所有していることでえることのできる量的豊かさである。確かに貨幣もまた人間の生み出したもののはずなのに、いつの間にか独立した価値として、人間の上に君臨している。その点では貨幣は「権力」に似ていた。p220
価値と関係の関係、これもゆっくり考えていきたいテーマ。

で、3冊目「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」これもおもしろかった。

著者が釣りをするために日本全国をまわって民宿などで地元の人と話をすると、かつては「キツネにだまされた」という話をよく聞いた。しかし1965年頃をさかいに、急にそのような話を聞かなくなった。そこで不思議に思い、今度は「1965年頃からキツネにだまされる話を聞かなくなったのは、なぜだと思いますか?」と聞くようにしてみた。そこで出てくる回答を中心に著者が考察するという本。

高度経済成長、科学の時代の到来、コミュニケーションの変化(電話とテレビの普及)、進学率の高まり、死生観の変化、自然観の変化、林業施策の変化や焼畑農業の終了による森の変化(によるキツネの変化)、などの理由があげられていく。どれも納得の変化。

経済成長、科学信仰、遠隔コミュニケーション、これらってまさに原発事故でその負の側面が明らかになった領域と重なり、しかも、1965年といえば日本初の商業用原子炉である東海原発が初臨界した年。

キツネにだまされなくなってテレビにだまされるようになったのが1965年。その時代の終わりが2011年。次は何にだまされる時代がくるのか注意しておきたいところ。

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