世界の「分かり方」としての右翼と左翼

1966年に邦訳が出版されたジェームス・ブラウン(あのJBではない)の「説得の技術―宣伝から洗脳まで」 を読んでいる。

なんでこんな本を読むかというと、原発の事故以来、Twitterのタイムラインに「プロパガンダ」という言葉が頻出しててプロパガンダについて知りたいと思ったことと、あと、宣伝や説得、プロパガンダは最近注目する言葉「対話」の真逆の要素を持っている感じがして、「対話」が何なのかを知る上で反面教師的に参考になるかもしれないと思ったため。印象に残ったことのメモ。
17~18世紀には宣伝的要素の強いパンフレットがはんらん …✄…社説やくだらないゴシップ記事が幅を利かせていたのである。当時の編集者にとって、ゴシップやスキャンダルは、発表するか握りつぶすかで相手を脅すことのできる、もってこいの収入源だった。…✄…新聞を公正な権威ある存在にしたのは、商業広告の発達である。広告主が喜んでスペースを買うためには、発行部数の多いことが必要であり、そのためには新聞は、偏見のない、公正な立場で報道しなくてはならなかったからである。p22
商業広告の発達が新聞を公正なものに変えた、というのには驚いた。今、商業広告が新聞の内容を歪めてることがとても大きな問題だと思うのですが、最初はそうだったのですねぇ。ネットが楽しいのってこの広告支配から免れているところが大きい要因であること、そして、「グーグル八分」がとても大きな問題であることも理解できるようになった。

もともと「プロパガンダ」という言葉は、ラテン語の propagare(繁殖させる)に由来する言葉で、「教義や習慣を普及させるための仕事、または、方法」という意味。人に情報を伝えて気持ちや考え、行動を変化させようとする点で「教育」と「宣伝」は似ているわけだけど、
”教育”と”宣伝”の区別は簡単である。前者は、一人でものごとの判断ができるようにするのが目的であり、後者は、考えない人のために既成の判断を押し付けるのが目的である。p24
分かりやすい。それで思い出したけど、HIROMIXの
それから最近考えているのは、美術とエンターテイメントは全く対極の存在だということ。美術は「人々が自分自身に向き合うきっかけを与えるもの」であり、エンタメは「自分自身と向き合うことからの逃亡であり、気晴らしに過ぎない」
とも通じるところがあります。 

で、この「教育」と「宣伝」、実際にこの2つを見分けるのは難しくて、例えば、「原子力発電を使いますか、それとも、江戸時代の生活水準に戻りますか?」という問い。これは問いかけて相手に判断を促すように見えるけど、実はこの問題設定がおかしくて、「問うことと分けることと分かることと」でいうところの「刻み方」の押し付けです。意思決定の枠組み自体を押し付けている宣伝であって、「誤った二分法(false dichotomy)」という古典的なプロパガンダ技法です。

で、右と左。右翼・左翼って言葉は前から聞いたことがあったけど、保守とか革新とか街宣車とかアカとか意味がよく分からなくて、しかも原発の推進とか反対とかとも関係してるらしくて、ますますよく分からなかったけど、この本の右と左の態度の比較、わかりやすかった。

グループに対して忠実リーダーに忠実
家族制度に懐疑的家族制度を支持
自由を強調規律を強調
フェミニスト反フェミニスト
性的自由を強調性的な束縛を強調
コスモポリタン愛国主義者
階級のない社会を支持階級差を支持
慣例や伝統に批判的慣例や伝統を支持
反宗教的宗教を支持
社会主義的個人の繁栄を支持
非偏見的偏見的

もちろん人間の志向が2種類に分けられるわけもないし、このような分類は意味を持たない、っていう人がいるのも当然だとは思うけど、でもやっぱり、なんだろう、明らかに一本の軸が通ってそうな感じがしますね。原発への態度とリンクすること、自民党が原発を推進してきて共産党が反対してきたこと、すっきり納得です。これだと僕は明らかに左寄りな感じだなぁ。

あと、ググってて見つけた松尾匡氏(おお、滋賀にお勤め!久留米市に在住で草津市勤務って可能なんですね)の説明、図も勝手に引用させてもらうと、
世界を縦に切って「ウチ」と「ソト」に分けて、「ウチ」に味方するのが右翼である。それに対して、世界を横に切って「上」と「下」に分けて、「下」に味方するのが左翼である。
ところがややこしくなるのは、まずもって、右翼も左翼も自分の切り分け方を当然の土俵のように思い込んで、相手との対抗軸を組み立てていることにある。お互い敵である相手が、自分と同じ切り分け方を共有して、自分と逆側に立つ者と考えるのである。

すなわち、左翼の考える敵=右翼は、世界を横に切って「上」と「下」に分けて、「上」に味方する者、右翼の考える敵=左翼は、世界を縦に切って「ウチ」と「ソト」に分けて、「ソト」に味方する者とみなされている。他人を攻撃するときの「右」「左」というレッテルが、多くの場合、外から見て非常に違和感のあるレッテルになるのは、これが原因である場合が多いと思う。
ものすごく分かりやすい。リンク先の文章もぜひ読んでいただきたい。

原発に関する議論でも、推進派も反対派も、よい社会にしたいという点では同じはずなのに、なかなか議論がかみ合わないのもこれと同じような「ねじれ」が原因になってるように思います。それも、エネルギー政策、経済政策、国防戦略、健康、差別、それ他もろもろ、それぞれが複雑にねじれてるせいですれ違いが多くて対話が始まらないんじゃないか、と思います。

大飯原発の再稼働については、再稼働したい人の考えていることが全く理解できなくて、頭おかしいんじゃないか、バカなんじゃないか、って思ってしまうのだけど、そもそもの世界の分け方(分かり方)が違うって考えると、また違った風に思えてきそうです。までも、原発については、目指す世界のあり方なんてこと以前にダメな感じがするなぁ。

で、政治思想としての右翼・左翼にはあまり興味がないのだけど、この「右」性と「左」性の背景にある世界観、認識のあり方は、人の心のとても深い所に由来してそうな感じがして、もっとゆっくり考えたい。

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