近況メモ
また1ヶ月以上ブログを更新しないでいた。近況メモ。
10月29日~31日は盛岡に行ってきた。このサイトに関するお仕事が目的で、合わせてこういう企画もあって、他にもたまたま開催されていた某会議にも参加させてもらって楽しい訪問だった。帰りはレンタカーで東北沿岸部をドライブして帰りたいと思っていたのだけど、バタバタしてしまって新幹線で直帰してしまった。
盛岡は、仕事に誘って下さった大学の先輩がきっかけでつながりができた場所だけど、その先輩の仲間の皆さんと別の経路で知り合いだったり、その先輩の上司にあたる人が学生時代にうちの近所の止揚学園に通われていたそうで、これまた別経路で共通の知人がいたり、二重三重につながっていることを発見して驚かされる。
あとIPS勉強会だけど、
リンゴが木になってるのを見たの初めてかもしれない(と言ったらいろんな人に驚かれた)。
11月2日と16日は近くのお寺の報恩講に出勤した。自坊以外のお寺の報恩講に出勤するのは初めてで緊張。うちの含めて、お寺の行事は昔に比べれば簡素化・短縮化されつつあるようだけど、それでもそれぞれのお寺に数十人が集まって、昔ながらの法要が脈々と続いていて、子供の頃は嫌いだったお寺の行事も「悪くないじゃないか」と思うようになったのはどういうわけか。
彦根市三津屋町の浜沿いの道。ほんといい場所。
11月23日、うちの報恩講だったけど、1日目を欠席させてもらって浜松のACT大会へ。島薗進先生の出演交渉に関わらせてもらった流れで、講演後の昼食にご一緒させてもらったり、午後の分科会の座長をさせてもらったりした。
宗教者と対人援助職者の相互乗り入れは、 きっとイノベーションを生むに違いないと思っているけど、その具体的な方法については相変わらず暗中模索。講演会も分科会もまさにドンピシャの話題で、やっぱりこの「仏教業界」と「メンタルヘルス業界」の間にかかる橋周辺、というのが僕の職場なんだろうなぁ、と再確認。で、今回、ACT研修で島薗先生の講演が実現したことそれ自体が、この橋のとても大きな契機になるのだろう、この出演交渉のようなお仕事がもっとできるようになると良いのだろうと思う。
分科会で出てきた質問で「(プレゼンの内容とは関係ないけど)島薗先生が普段の生活で心がけておられることは何ですか?」というのがあって、これに、「忙しく過ごしているので、もう少しゆっくりとした時間を持ちたいと思う。何かのための時間、何かの手段としての時間ではなく、その時間自体が目的であるような、そういう時間を持つようにこころがけています」というのが印象的だった。
島薗先生と写真撮ってもらうつもりだったけど忘れてしまった。大事なことって写真残らないんですね...。この日の早朝、浜松に向かう新幹線の車窓から。
そういえば、ちょっと前後するけど、11月12日、福岡の大学に勤める元同僚と、新しいお仕事の打ち合わせをするために京都で会った。
数年前、この元同僚が大学の授業のゲスト講師を探している時に、僕の知人のお坊さんを紹介したことがあったのだけど、その後もこのゼミとお寺のつながりが続いていて、今も学生さんがそのお寺に訪問しているという話を聞いて驚いた。
この紹介とかも、まさにさっきの「橋渡し」なんだけど、別に当時は橋渡しがしたくて紹介したわけでもなくて、僕は講義なんてできませんよ、ということで逃げるために紹介したようなものだったので、もちろんまさかその後につながるとも思っていなかったけど、つながる時はつながるんですね。橋渡しが僕の仕事だ、なんて力まなくても、あっちとこっちをフラフラ行き来してれば自然とつながるところでつながるんだろうなぁ、とも思った。
で、11月29日と30日、沖縄の精リハ学会に行ってきた。これまた、大会企画の出演交渉の場所にたまたま居合わせたことがきっかけで、その流れで別セッションの座長に誘ってもらったものだ。このセッションというのが、タイトルが「調査・研究」という、どのセッションもそうじゃん、と思うのだけど、要するにどのテーマにも分類しにくい「その他」セッションで、話題も内容もバラエティ豊か。なんだけど、6人の演者のうちなんと4人が一緒に仕事をしたことがある人で、他の2人の発表も関心の高いテーマで、リラックスして楽しませてもらった。
蟻塚亮二先生の講演「沖縄戦のトラウマによるストレス症候群」が印象的だった。佐喜眞美術館の上間かな恵学芸員が、丸木位里・丸木俊の描いた沖縄戦の絵画を映写しながら沖縄近代史について話されて、それに続いて蟻塚先生の沖縄戦トラウマによるストレス症候群のお話。
それで、その佐喜眞美術館というのが学会場と同じ宜野湾市内にあるということで、講演が終わってすぐにタクシーに乗って美術館へ。タクシーの運転手さんから質問されて、午前の講演の話となり、沖縄戦から60年以上の時間が経過しているけど、今でも命日や近親者の死などをきっかけにPTSD症状が現れている、という話をすると、「それは体の傷も同じですねぇ。年をとって痛み始める古傷がありますねぇ。」と。確かにそうだ。
そして佐喜眞美術館。館長の佐喜眞道夫さんが、普天間基地の一部を返還させて佐喜眞家代々の土地に建てた個人美術館。かかっている絵画は、直前にPowerPointで同じようなサイズで見たものだけど、本物は全然違って、ずしんとくる。で、何気なく眺めていた書籍販売コーナーに真宗大谷派の本がいくつかあって、不思議に思って後でググってみたら、こういうページがあって、
で、タクシーの運転手さんがとても良くしてくれて、「お帰りの時にも電話してください、すぐに来ますので。」と携帯の番号のメモをくれていたので、電話してみたらほんと15秒くらいで来てくれて、「もしお時間あれば、中城城も回りましょう。お客さん、感じが良いから。」なんて言いながら料金メーターを止めてしまうので、これは詐欺なのか、新手のぼったくりなのか、と一瞬思ったのだけど、どう見てもそんなふうには思えなくて、お言葉に甘えて中城城へ。「私も中に入るの30年ぶりなんで、ご一緒していいですか」と一緒にお城の中まで付き合ってくれたり、普天間基地がよく見える場所をぐるっと回ってくれたり。
「ドライバーやってて何が一番幸せかって、遠くから来られた人に、ここの文化や歴史を見てもらうことです。」と。一瞬とはいえ詐欺を疑ったことを申し訳なく思いつつ、こういう気持ちで仕事ができたらそれは幸せだろうなぁ、こういう生き方が幸福な生き方っていうんだろうなぁ、と感心した。そして、「おつりは結構です、取っておいて下さい。」 と初めてシラフで言った。
11月は出かけることが多かった。もっといろいろ書き残しておくべきことがあったと思うけど、まぁいいか。12月は東京と大阪だ。
米軍基地の周囲に張り巡らされた有刺鉄線にとまる鳥は、木の実を食べて糞をするのに、たぶんあっち側もこっち側も関係なくて、そして、それが種を運んで森を広げているということをたぶん知らない。人間も、自分がやってることの理由や、やっていることがもたらす結果について、ほとんど何も知らない点では全く同じだ。こうも軽やかに有刺鉄線で休憩する鳥を見ると、僕ももうちょっと軽やかになれるんだろうなぁ、と思う。すでに十分に軽薄だけど、そうじゃなくて、こう、なんというか、軽やかになりたい。
10月29日~31日は盛岡に行ってきた。このサイトに関するお仕事が目的で、合わせてこういう企画もあって、他にもたまたま開催されていた某会議にも参加させてもらって楽しい訪問だった。帰りはレンタカーで東北沿岸部をドライブして帰りたいと思っていたのだけど、バタバタしてしまって新幹線で直帰してしまった。
盛岡は、仕事に誘って下さった大学の先輩がきっかけでつながりができた場所だけど、その先輩の仲間の皆さんと別の経路で知り合いだったり、その先輩の上司にあたる人が学生時代にうちの近所の止揚学園に通われていたそうで、これまた別経路で共通の知人がいたり、二重三重につながっていることを発見して驚かされる。
あとIPS勉強会だけど、
今回のゲストは、滋賀からお越しいただく、園環樹(そのたまき)さん。精神保健の調査研究の分野でご活躍されていますが、浄土真宗のお坊さんでもあります。マインドフルネスや、コンパッション(慈しみ)などのお話を、仏教の観点からも、たくさんお聞きしたいと思っています。今月は、しっとりした感じになりますかね。そんな語るようなことなど何もない...、と思いつつ、行きの新幹線でWikipediaから仕込んだ情報を中心にベラベラとしゃべってしまった、というか、なんというか、そこで行われていることは、「話し合い法座」そのもので、お寺でもなかなかできなくなっていることが、こうして別の文脈から生まれているということに感動する。お寺にいると全然感じないのだけど、ちょっと外に出ると仏教思想についてもっと知りたいとか感じたいという声は本当にたくさんあって、もっとちゃんと勉強しなければいけないといつも思う。
リンゴが木になってるのを見たの初めてかもしれない(と言ったらいろんな人に驚かれた)。
11月2日と16日は近くのお寺の報恩講に出勤した。自坊以外のお寺の報恩講に出勤するのは初めてで緊張。うちの含めて、お寺の行事は昔に比べれば簡素化・短縮化されつつあるようだけど、それでもそれぞれのお寺に数十人が集まって、昔ながらの法要が脈々と続いていて、子供の頃は嫌いだったお寺の行事も「悪くないじゃないか」と思うようになったのはどういうわけか。
彦根市三津屋町の浜沿いの道。ほんといい場所。
11月23日、うちの報恩講だったけど、1日目を欠席させてもらって浜松のACT大会へ。島薗進先生の出演交渉に関わらせてもらった流れで、講演後の昼食にご一緒させてもらったり、午後の分科会の座長をさせてもらったりした。
宗教者と対人援助職者の相互乗り入れは、 きっとイノベーションを生むに違いないと思っているけど、その具体的な方法については相変わらず暗中模索。講演会も分科会もまさにドンピシャの話題で、やっぱりこの「仏教業界」と「メンタルヘルス業界」の間にかかる橋周辺、というのが僕の職場なんだろうなぁ、と再確認。で、今回、ACT研修で島薗先生の講演が実現したことそれ自体が、この橋のとても大きな契機になるのだろう、この出演交渉のようなお仕事がもっとできるようになると良いのだろうと思う。
分科会で出てきた質問で「(プレゼンの内容とは関係ないけど)島薗先生が普段の生活で心がけておられることは何ですか?」というのがあって、これに、「忙しく過ごしているので、もう少しゆっくりとした時間を持ちたいと思う。何かのための時間、何かの手段としての時間ではなく、その時間自体が目的であるような、そういう時間を持つようにこころがけています」というのが印象的だった。
島薗先生と写真撮ってもらうつもりだったけど忘れてしまった。大事なことって写真残らないんですね...。この日の早朝、浜松に向かう新幹線の車窓から。
そういえば、ちょっと前後するけど、11月12日、福岡の大学に勤める元同僚と、新しいお仕事の打ち合わせをするために京都で会った。
数年前、この元同僚が大学の授業のゲスト講師を探している時に、僕の知人のお坊さんを紹介したことがあったのだけど、その後もこのゼミとお寺のつながりが続いていて、今も学生さんがそのお寺に訪問しているという話を聞いて驚いた。
この紹介とかも、まさにさっきの「橋渡し」なんだけど、別に当時は橋渡しがしたくて紹介したわけでもなくて、僕は講義なんてできませんよ、ということで逃げるために紹介したようなものだったので、もちろんまさかその後につながるとも思っていなかったけど、つながる時はつながるんですね。橋渡しが僕の仕事だ、なんて力まなくても、あっちとこっちをフラフラ行き来してれば自然とつながるところでつながるんだろうなぁ、とも思った。
で、11月29日と30日、沖縄の精リハ学会に行ってきた。これまた、大会企画の出演交渉の場所にたまたま居合わせたことがきっかけで、その流れで別セッションの座長に誘ってもらったものだ。このセッションというのが、タイトルが「調査・研究」という、どのセッションもそうじゃん、と思うのだけど、要するにどのテーマにも分類しにくい「その他」セッションで、話題も内容もバラエティ豊か。なんだけど、6人の演者のうちなんと4人が一緒に仕事をしたことがある人で、他の2人の発表も関心の高いテーマで、リラックスして楽しませてもらった。
蟻塚亮二先生の講演「沖縄戦のトラウマによるストレス症候群」が印象的だった。佐喜眞美術館の上間かな恵学芸員が、丸木位里・丸木俊の描いた沖縄戦の絵画を映写しながら沖縄近代史について話されて、それに続いて蟻塚先生の沖縄戦トラウマによるストレス症候群のお話。
それで、その佐喜眞美術館というのが学会場と同じ宜野湾市内にあるということで、講演が終わってすぐにタクシーに乗って美術館へ。タクシーの運転手さんから質問されて、午前の講演の話となり、沖縄戦から60年以上の時間が経過しているけど、今でも命日や近親者の死などをきっかけにPTSD症状が現れている、という話をすると、「それは体の傷も同じですねぇ。年をとって痛み始める古傷がありますねぇ。」と。確かにそうだ。
そして佐喜眞美術館。館長の佐喜眞道夫さんが、普天間基地の一部を返還させて佐喜眞家代々の土地に建てた個人美術館。かかっている絵画は、直前にPowerPointで同じようなサイズで見たものだけど、本物は全然違って、ずしんとくる。で、何気なく眺めていた書籍販売コーナーに真宗大谷派の本がいくつかあって、不思議に思って後でググってみたら、こういうページがあって、
丸木夫妻の絵から貰った力、それはどこから生まれたのでしょうか。佐喜眞さんは、二人の中にあった深い宗教心ではないかと考えています。丸木位里は、1901年広島県の農家に生まれました。幼い頃から三度の食事に祈りをかかさないという敬虔な浄土真宗安芸門徒の家庭に育ちました。丸木俊は、1912年に北海道の浄土真宗の寺の長女として生まれました。佐喜眞さんが、丸木夫妻と深い付き合いができたのは、俊さんの針治療だけでなく、高校時代から『歎異抄』や『教行信証』を読んでいたという仏教が取り持つ縁でもあったのです。ふうむ。沖縄でまで出会ってしまう...。
で、タクシーの運転手さんがとても良くしてくれて、「お帰りの時にも電話してください、すぐに来ますので。」と携帯の番号のメモをくれていたので、電話してみたらほんと15秒くらいで来てくれて、「もしお時間あれば、中城城も回りましょう。お客さん、感じが良いから。」なんて言いながら料金メーターを止めてしまうので、これは詐欺なのか、新手のぼったくりなのか、と一瞬思ったのだけど、どう見てもそんなふうには思えなくて、お言葉に甘えて中城城へ。「私も中に入るの30年ぶりなんで、ご一緒していいですか」と一緒にお城の中まで付き合ってくれたり、普天間基地がよく見える場所をぐるっと回ってくれたり。
「ドライバーやってて何が一番幸せかって、遠くから来られた人に、ここの文化や歴史を見てもらうことです。」と。一瞬とはいえ詐欺を疑ったことを申し訳なく思いつつ、こういう気持ちで仕事ができたらそれは幸せだろうなぁ、こういう生き方が幸福な生き方っていうんだろうなぁ、と感心した。そして、「おつりは結構です、取っておいて下さい。」 と初めてシラフで言った。
11月は出かけることが多かった。もっといろいろ書き残しておくべきことがあったと思うけど、まぁいいか。12月は東京と大阪だ。
米軍基地の周囲に張り巡らされた有刺鉄線にとまる鳥は、木の実を食べて糞をするのに、たぶんあっち側もこっち側も関係なくて、そして、それが種を運んで森を広げているということをたぶん知らない。人間も、自分がやってることの理由や、やっていることがもたらす結果について、ほとんど何も知らない点では全く同じだ。こうも軽やかに有刺鉄線で休憩する鳥を見ると、僕ももうちょっと軽やかになれるんだろうなぁ、と思う。すでに十分に軽薄だけど、そうじゃなくて、こう、なんというか、軽やかになりたい。