Intentional Peer Support の勉強会の第一印象
IPS(Intentional Peer Support) の勉強会に参加させていただきました。第一印象です。全然まとまらないのですが、最初の印象はとても大事だと思うので、忘れないようにメモです。ちなみに、半年前に書いてたIPSについて思うことはこちら。
で、ご存知の方はご存知のように、WRAP&IPSのコミュニティにはかなり濃密な結びつきがあるように見えるので、入っていくこと自体にちょっと緊張してしまったりするのですが、実際には怖がる場所では全然なくて、寛大で懐の広い居心地のいい雰囲気でした。さらに会の前には「人の話をさえぎらない」「まとまってなくても話していい」といったルールの共有があります。誰かが誰かの発言を促すとか、指名するとか、そういうことは行われず、無言の時間が続いたりしても誰も気にしません。発言しようがしまいが何を言おうが言われまいが構わない、っていうの、発言しやすいですね。で、この雰囲気でしか出てこない言葉っていうのがきっとあると思います。だけど、こういう穏やかな雰囲気って一朝一夕には作れないもので、しかもこの雰囲気はきっと対話においては必須のものだと思うので、今後新しい場所で勉強会を広げる上では、場作り、コミュニティ作り自体がとても大きな仕事になるんだろうなぁ、と思ったりもします。
で、一方で思うことは、安心出来ない場所でこそ、利害や価値観が相反する相手とのコミュニケーションでこそ、こういった対話が生きるとも思うので、この居心地がよくルールやマナーが共有された場所を出て行く時の壁ってきっとあるんだろうなぁ、と思ったりします。実生活でIPS的な対話をすることの難しさ、とも言い換えることができるのかもしれません。
で、内容なんですけども、たとえば、
なんてお題について考えてみたりしました。これについて、たとえば「もうちょっとよく考えてみなよ」と答えたくなる。その言葉の前提になっているのは、学歴があったほうが就職やその他いろいろに有利であり、高い社会的地位が収入が幸福につながるという考え方があるのかもしれない、みたいなことを参加者が話します。他の参加者もそれを受けて話します。いろんな視線、解釈、前提があることに気付かされます。
で、なんていうのかな、ここで行われる会話のほとんどが、対話についての対話、メタ対話と呼ぶことも出来る感じのものなんですね。過去にこういう対話をした、その対話についてこう考えることもできる、という対話についての対話です。ぼんやり聞いていると、たとえば「その話、続けたほうがいいのかな。」なんて言葉は、話題になっている対話についての話なのか、今ここでの対話についての話なのか、ひょっとすると今後の勉強会のあり方についての話しなのか、どの層についての話なのか一瞬迷う感じで、しかも話題は層を行ったり来たりもして、とても面白い体験でした。
で、メタ・コニュニケーションというものについて思い出していました。内田樹の説明が分かりやすいですけども、要するにコミュニケーションに関するコミュニケーションで、「あ、この話つまんない?」とか「このメール、返信は不要です。」とか「(笑)」とかいうものです。普通の日常会話でもメタメッセージって随所に入っていて、言語的なものも非言語的なものも、会話の潤滑油程度のものから、メタメッセージ自体が主なメッセージであるような場合まで様々です。「今度ご飯食べに行きましょう。」が社交辞令かどうかの判断など、表情とか声とか間とか互いの過去とか社会通念とか、いろんな情報や知識を総動員してメタ・メッセージを敏感に読みとかないけません。で、誤解とかすれ違い、ストレスとかって、基本的にはメタ・メッセージの読み取りミスから起こるものだと思います。
で、このIPS勉強会では、「この対話をこう思って、こう解釈して、そう読み取った背景にはこういう思いがあって。。。」という対話を通して、メタ・コミュニケーションの部分を意識する、という部分が大きな要素になっていると感じました。メタ・コニュニケーションをコミュニケーションの俎上にあげる、というか。
で、ピササポートという名前ではありますが、いわゆる「ピア(「精神疾患をもつ者」と呼ばる体験を共有する仲間)」ではなくて、相互に学び合う者同士としてのピア、みたいな意味で使われていて、実際に誰が何者なのかということについては誰も気にしない感じです。よもすると傷を舐め合い足を引っ張り合う関係になりがちな「ピア」という関係を超えていく、開かれていく、というのがIPSの大きな特徴かと思います。で、主催者も「対話をこっちの方向に持っていって、こういうことに気づいてほしい」みたいな感じでもなく、そこで広がる対話から学びたいという動機をもつ参加者として対等な立場です。
他にも、つながり、スペース、居心地の悪さをこえる、責任の共有、などなどキーワードがいろいろありそうですが、中身についてはまたおいおい。
で、戸惑うのが目的の所在です。ここで行われている対話って、人と良好な関係を作るための対話法とか、相互に学びを生み出す関係性を作るためのトレーニング、みたいな側面もありつつ、こういう対話ができる関係が良好な関係、みたいな自己目的化してる雰囲気も感じるし、目的はそれぞれにあっていい、っていう感じにも見え、さらには、無目的であることが重要な要素、っていう感じもするし、日常的に「目的」に縛られていると、ついつい考え込んでしまいます。
で、研究についてですが、これまた何だかよく分からない感じになってきて、そもそもがメタ対話みたいな感じもあって、それ自体がすでに「研究的」なんですね。で、その学びの場から学ぶ、っていうことになるのかと思うのですが、なんだろう、個々の学びから学びの要素を抽出するとか、勉強会で何が起こっているのかを明らかにするとか、それらを普遍的な言葉で表現するとか、そういうことなのか、ちょっと違うのかな。。。とより一層混乱しています。
で、ご存知の方はご存知のように、WRAP&IPSのコミュニティにはかなり濃密な結びつきがあるように見えるので、入っていくこと自体にちょっと緊張してしまったりするのですが、実際には怖がる場所では全然なくて、寛大で懐の広い居心地のいい雰囲気でした。さらに会の前には「人の話をさえぎらない」「まとまってなくても話していい」といったルールの共有があります。誰かが誰かの発言を促すとか、指名するとか、そういうことは行われず、無言の時間が続いたりしても誰も気にしません。発言しようがしまいが何を言おうが言われまいが構わない、っていうの、発言しやすいですね。で、この雰囲気でしか出てこない言葉っていうのがきっとあると思います。だけど、こういう穏やかな雰囲気って一朝一夕には作れないもので、しかもこの雰囲気はきっと対話においては必須のものだと思うので、今後新しい場所で勉強会を広げる上では、場作り、コミュニティ作り自体がとても大きな仕事になるんだろうなぁ、と思ったりもします。
で、一方で思うことは、安心出来ない場所でこそ、利害や価値観が相反する相手とのコミュニケーションでこそ、こういった対話が生きるとも思うので、この居心地がよくルールやマナーが共有された場所を出て行く時の壁ってきっとあるんだろうなぁ、と思ったりします。実生活でIPS的な対話をすることの難しさ、とも言い換えることができるのかもしれません。
で、内容なんですけども、たとえば、
親戚の高校生が「学校をやめようと思ってるんだ。」とあなたに言ったとき、あなたはどう答えるだろうか。その答えを言う背景にあるあなたの思い込み、想定、どんなものがあるだろうか。
なんてお題について考えてみたりしました。これについて、たとえば「もうちょっとよく考えてみなよ」と答えたくなる。その言葉の前提になっているのは、学歴があったほうが就職やその他いろいろに有利であり、高い社会的地位が収入が幸福につながるという考え方があるのかもしれない、みたいなことを参加者が話します。他の参加者もそれを受けて話します。いろんな視線、解釈、前提があることに気付かされます。
で、なんていうのかな、ここで行われる会話のほとんどが、対話についての対話、メタ対話と呼ぶことも出来る感じのものなんですね。過去にこういう対話をした、その対話についてこう考えることもできる、という対話についての対話です。ぼんやり聞いていると、たとえば「その話、続けたほうがいいのかな。」なんて言葉は、話題になっている対話についての話なのか、今ここでの対話についての話なのか、ひょっとすると今後の勉強会のあり方についての話しなのか、どの層についての話なのか一瞬迷う感じで、しかも話題は層を行ったり来たりもして、とても面白い体験でした。
で、メタ・コニュニケーションというものについて思い出していました。内田樹の説明が分かりやすいですけども、要するにコミュニケーションに関するコミュニケーションで、「あ、この話つまんない?」とか「このメール、返信は不要です。」とか「(笑)」とかいうものです。普通の日常会話でもメタメッセージって随所に入っていて、言語的なものも非言語的なものも、会話の潤滑油程度のものから、メタメッセージ自体が主なメッセージであるような場合まで様々です。「今度ご飯食べに行きましょう。」が社交辞令かどうかの判断など、表情とか声とか間とか互いの過去とか社会通念とか、いろんな情報や知識を総動員してメタ・メッセージを敏感に読みとかないけません。で、誤解とかすれ違い、ストレスとかって、基本的にはメタ・メッセージの読み取りミスから起こるものだと思います。
で、このIPS勉強会では、「この対話をこう思って、こう解釈して、そう読み取った背景にはこういう思いがあって。。。」という対話を通して、メタ・コミュニケーションの部分を意識する、という部分が大きな要素になっていると感じました。メタ・コニュニケーションをコミュニケーションの俎上にあげる、というか。
で、ピササポートという名前ではありますが、いわゆる「ピア(「精神疾患をもつ者」と呼ばる体験を共有する仲間)」ではなくて、相互に学び合う者同士としてのピア、みたいな意味で使われていて、実際に誰が何者なのかということについては誰も気にしない感じです。よもすると傷を舐め合い足を引っ張り合う関係になりがちな「ピア」という関係を超えていく、開かれていく、というのがIPSの大きな特徴かと思います。で、主催者も「対話をこっちの方向に持っていって、こういうことに気づいてほしい」みたいな感じでもなく、そこで広がる対話から学びたいという動機をもつ参加者として対等な立場です。
他にも、つながり、スペース、居心地の悪さをこえる、責任の共有、などなどキーワードがいろいろありそうですが、中身についてはまたおいおい。
で、戸惑うのが目的の所在です。ここで行われている対話って、人と良好な関係を作るための対話法とか、相互に学びを生み出す関係性を作るためのトレーニング、みたいな側面もありつつ、こういう対話ができる関係が良好な関係、みたいな自己目的化してる雰囲気も感じるし、目的はそれぞれにあっていい、っていう感じにも見え、さらには、無目的であることが重要な要素、っていう感じもするし、日常的に「目的」に縛られていると、ついつい考え込んでしまいます。
で、研究についてですが、これまた何だかよく分からない感じになってきて、そもそもがメタ対話みたいな感じもあって、それ自体がすでに「研究的」なんですね。で、その学びの場から学ぶ、っていうことになるのかと思うのですが、なんだろう、個々の学びから学びの要素を抽出するとか、勉強会で何が起こっているのかを明らかにするとか、それらを普遍的な言葉で表現するとか、そういうことなのか、ちょっと違うのかな。。。とより一層混乱しています。