67年目の広島平和記念公園
ちょうど8月6日に広島に行くことができたので、式典をテレビで見た後、原爆投下から67年目の平和記念公園に行ってきた。小学校の修学旅行で1回目、大人になって2回目、2010年にソロモン先生と3回目、で、今日が2年ぶり4度目の平和記念公園。年をとるごとに戦争や原爆の意味が分かってきて、月日は遠ざかっているけど、抱く感情は大きく重くなっていく。
式典での、比治山小6年の三保竜己さんと安北小6年の遠藤真優さんの「平和への誓い」、これって、小学6年生が書けるのかなぁ、先生も手伝うのかな、どっちにしても感動した。
平和はわたしたちでつくるものです。
身近なところに、できることがあります。
違いを認め合い、相手の立場になって考えることも平和です。
思いを伝え合い、力を合わせ支え合うことも平和です。
わたしたちは、平和をつくり続けます。
仲間とともに、行動していくことを誓います。
沖縄の北谷町から千羽鶴。沖縄だってひどい被害があっただろうに、どういう思いで折り鶴を折るのかな。ちょっとググるだけでも、
北谷町は米軍上陸の地であり、したがってその体験記録には興味深い証言がいくつもある。中でも、丸太で米軍戦車を防ごうとした話や竹細工でオトリの飛行機を作った話は、今でこそ笑い話だが、そうした日本軍の作戦のもとに20万余の人命が無惨にも失われたことを考えると、暗然たる思いになる。...調査の結果、沖縄戦での犠牲者は1207人(戦死率15.1%)になったという。これは、西原町の戦死率46.9%、浦添市の44.6%と比べ、北谷町の際立った特徴である。ところで、県内53市町村のうち、こうした詳細な戦災調査を実施しているのは、この北谷町・西原町・浦添市などまだ一部でしかない。沖縄戦でいったいどれだけの人々が犠牲になったのかは、最も基本的なことでありながら、今だに解決されない問題なのである。 1993年2月6日・琉球新報・夕刊暗澹とする。沖縄のこと、もっと知らないといけないと思う。
夜、NHKで「黒い雨~活かされなかった被爆者調査~」を見た。
去年2011年の暮れ、被爆に関する「あるデータ」が突然公表された。原爆投下直後に降った放射性物質を含む雨“黒い雨”に、1万3千人もの人が遭ったことを示す分布地図だ。 黒い雨とは、原子爆弾投下後に降る、原子爆弾炸裂時の泥やほこり、すすなどを含んだ重油のような粘り気のある大粒の雨のこと。放射性降下物(フォールアウト)の一種だ。 この黒い雨は、広島市では、主に北西部を中心に大雨となって激しく降り注いだ。広島に投下された3日後に原爆が投下された長崎でも降った。これまた暗澹とした...。
この黒い雨は強い放射能を帯び、この雨に直接打たれた者は、二次的な被爆を受けた。これが原因で、頭髪の脱毛や、歯ぐきからの大量の出血、血便、急性白血病による大量の吐血などの急性放射線障害をきたした。当時、直接被ばくを受けた人々は、この雨が有害なものと知らず、喉の渇きから口にするものも多かったという。この雨は、川にも流れ込み、河川や井戸水は汚染され、川魚は死んで浮き上がり、汚染された水を口にしたものは下痢を起こしたりしたという。
この黒い雨にどこでどれくらいの人が遭ったかという「公式データ」はないとされてきた。ところが、昨年末の長崎の医師の問い合わせをきっかけに明らかになった。この突然の発表に、広島・長崎は衝撃を受けたのはもちろん、なぜこうした“命の記録”ともいう大切なデータが存在しないとされてきたのか?そして67年たった今、なぜそれが明らかになったのか?そこには、国際政治の思惑が見え隠れする。
データは、放射線の人体への影響を科学的に明らかにするためにアメリカの研究機関ABCCが集め、研究を引き継いだ放射線影響研究所(放影研)が保管していたものだった。多くの被爆者の協力のもと集められた“命の記録”だった。 NHKスペシャルは、被爆者追跡調査の歴史を丹念に追いながら、その実像に迫っていく。
安らかにお眠りください。過ちは二度と繰り返しませんから。この言葉も、見るたびに重くなる。
そして、どういうわけか、論文とか学会の準備とか領収書の整理とか、やらなくちゃいけない仕事のやる気がしぼんでいく...。