網野善彦と斎藤環と松岡宮

最近読んだ2冊の本。

網野善彦(著)「日本の歴史をよみなおす

ずっと学校の歴史の授業では、歴史の何がおもしろいのかさっぱり分からずに大嫌いだったけど、今年「無縁・公界・楽―日本中世の自由と平和」を読んですっかりはまった。孫崎さんの「戦後史の正体」もそうだけど、歴史を知ると、今目の前に見えてる世界の意味ががらっと変わるんですね(何を今更...かもしれないけど)。

本来捨てられるはずだったふすまの下地に使われてる紙に残された言葉から、公式に残されてる文書では見えてこない当時の人たちの生活が明らかになっていく様子とか、とてもスリリングでおもしろかった。

栄枯盛衰というか諸行無常というか、当時はものすごい勢いがあったであろう人やシステムが、跡形もなく消えて忘れ去られていくこと、あらためて驚く。と、同時に、人間の変わらなさにも驚く。

あと、家族と女性の地位について最近興味があるのだけど、そこで紹介されていたルイス・フロイスの「日本覚書」、すごくおもしろそうで買ってしまった。


で、2冊目は、斎藤環(著) 「家族の痕跡―いちばん最後に残るもの

松岡先輩の詩が引用されてるんだって!しかも、今関心のある家族がテーマ。というわけで即購入した本。詩は斎藤環氏のブログで読めます。必読。

宮崎駿の勤労感をややシニカルに紹介した直後にこの詩を引用して、
この詩に出会って以来、私はいっそう、「勤勉の美徳」なる概念については、疑いを持つようになった。「謝れ職業人」の過激さは、勤勉の自慢が有害である以上に、勤勉の美しさまでが暴力的であるというところまで届いているところだ。その職業が社会にとって有益か否かに関係なく、「職業を持つもの」は「持たざるもの」に謝罪しなければならない、という主張。この過激さは、果たしてどれほど理解・共感されうるだろうか。
僕はこの詩を読んで、自分が「白いブヨブヨした腹を踏みつけてサーフィンしている」こと、自分の無自覚の加害性に気付かされてショックでした。

で、肝心の家族については、「はじめに」の中のこの段落がすごい。
便利であって不便。親密にして疎遠。 多様にして単純。単純にして複雑。 深淵に通ずる浅瀬。個別にして普遍。 はかなくも不滅。神聖かつ下品。 病の元凶にして癒しの器。人は家族のもとで成長し、家族のもとで退行する。 人は家族ゆえに孤独を免れ、家族のために孤独になる。 生きる上では必須のものだが無くても平気で生きていける。 最大の喜びと最低の憂鬱さの源。 誰もが嫌悪しつつ、誰もが憧れる。 倫理を育むと同時に諸悪の根源である。 つまり家族は、絶望であって希望である。
ほんと家族って、矛盾と逆説、両義性の塊なんですね。家族のことを調べれば調べるほど、考えれば考えるほど、家族って何なのか分かんなくなっていきます。

いろいろ読んでいると、家族の形は想像もできないくらいに多様化して、家族制度は崩壊していくのかな、なんて思ってしまうのだけど、斎藤環氏はそうは思わないそうで、
しかし、たぶんそれ(家族の多様化や家族制度の崩壊)は起こらない。そう、「人間」と「家族」は変われば変わるほど変わらない。だから私たちは繰り返し問わねばならない。私たちはいかにして「家族」と共存しうるのか。また私たちは、これからも変わらずにあるために、いかに変わりつづけなければならないのか、と。
ううん。。。どうなのかなぁ。変わるものと変わらないもの、変えなければいけないこと、変えられないこと、ううん...。ううん。。。

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