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Showing posts from July, 2010

Umeboshi 2010

梅の収穫の写真を撮り忘れてたことが悔やまれます。

各種デジタルネイティブな言葉の特徴

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言葉が生まれる場所はいろいろあります。 言葉を分析する研究では、それらの言葉の生まれる場所、生み出され方に配慮して、それぞれの特性を生かした分析が求められます。言葉を生み出す方法で最もよく用いられる手法の一つがインタビューですが、インタビューにもいろいろあって、個別インタビュー、グループインタビュー、質問を事前にきっちり決めて行う構造化インタビュー、きめない非構造化インタビュー、その中間の半構造化インタビュー、いろいろあります。 口頭でのインタビュー以外にも、質問紙を用いて出てくる書き言葉が分析されたり、メールの文章が分析されたりします。これらは調査者が質問を投げかけ、それによって出てきた言葉、引き出された言葉です。他には、匿名掲示板の言葉だったり、新聞記事、カルテ記録といった既存資料の言葉、特定の状況を観察して拾われる言葉など、研究者がいようがいまいが生まれる自然発生的な言葉が分析されることもあります。まあ、たいがいの言葉は分析され得ます。 最近だと、 IBM SPSS Statistics ~twitter 分析モデル~ なんてのもあるくらいで、きっと twitter の分析もいろんなところで行われてるんですよね。あと、「 米国議会図書館がTwitterの全ログを保存 」なんてニュースもありましたが、これも「許可された研究者にのみセットで提供する」という方針からも明らかなように将来分析されることを想定しての保存です。どう使えるか分からないけどとにかく保存し始める、みたいな柔軟な決断、素敵ですね。 さて、言葉が生まれる場所はそこらじゅうにあるわけですが、大別すると、口から出てくる話し言葉と指先から出てくる書き言葉の2種類があります。手話もあるか。手話は手を使うけど話し言葉に近いのかな...。 基本的に書き言葉は話し言葉よりも考える時間が長いので、理路整然としたり、無駄な情報が少なかったり、深いところから言葉が出たりすると思うのですが、一方で、余計なことを配慮する時間もたっぷりあるので、嘘がつきやすかったり、相手の意図を汲み取りすぎたり、社会的望ましさが高い回答に偏ったり、素直で反射的な感情が出ない傾向があると思います。あと、付随する非言語的な情報が異なります。話し言葉では表情やしぐさ、視線などなどたくさんあり、一方で、書き言葉では筆跡や筆圧などに限定されます。 で

CAQDASについてシルバーマンはかく語りき

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とある勉強会で David Silverman の Doing Qualitative Research を読んでいます。今日担当させていただいたのが、第14章の「Using Computers to Analyze Qualitative Data」でした。そのメモです。 第14章の目的 質的データ分析におけるコンピュータ使用の利点と限界を理解する 主なCAQDAS製品の特徴を知る 各CAQDASの詳細を知り、研究プロジェクトに対する利便性を評価する 14.1 イントロダクション テキスト内容分析でのコンピュータ使用は人文科学の領域で1960年代から人気に。社会科学では80年代初頭から。質的分析では統計分析に比べ、コンピュータの高い性能を必要とすることや心理的抵抗が大きかったことなどから普及が遅れた。 14.2 CAQDASで何ができるか 主なソフト(メインストリームとしてはNVivo、MAXQDA、ATLAS.ti)でできることの概観。テキストデータのみならず、画像や音声、動画を扱えるソフトも。共通してできることは、検索、クエリ検索、コーディング、コードの検索や検索結果のエクスポートなど。また、基礎属性データをテキストに添付するなどの機能もある。さらに、メモの添付、統計データとの連携、作図機能などがある場合も。 14.3 CAQDASの長所 主に3点ある。 速い。大規模なデータを扱う場合に特に。 300時間200万語のデータを分析し、セッション中に特定の単語が高い頻度で出現した場合に、そのセッションへの参加者の評価が高かったことが明らかに 、といった研究の紹介。 厳密。出現頻度などを数える場合、統計データと一緒に分析する場合など特に。また、属性ごとに引用を分類して比較、といったことも容易で厳密。 共有。チーム内でのコーディングの共有が容易。コードと原文のあいだをいったりきたり、も容易。 14.4 限界と短所 主に3点ある。 ワープロと一緒? 多くの作業はMS Word でもできてしまう。ただ、コーディング部分をエクスポート、数えてエクスポートといった機能は、Wordではマクロを使う必要があり時間がかかる。 分析がせまくなる? CAQDAS使える分析手法が限られている。Formal structure of narrativesの分析などはサポートされていない。

はじめに身体的違和感ありき

このまえ、 404 Blog Not Found を読んでて考えさせられたのでメモ。引用すると、 重量の比較に必要なのは天秤であって、具体的な数値ではないのである。そしてこの事は全ての比較に関して成り立つ。比較とはあくまで定性的(qualitative)な作業であり、定量的(quantitative)な作業ではないのである。 それではなぜ大人ほど天秤のことを忘れてしまうのか? 具体的な数値を使った比較の方が、楽だからだ。比較の都度天秤にのせるより、具体的な数字を集計した方がずっとやりやすい。天秤を使った比較は全作業をリアルで行う必要があるが、体重計の数値公表方式であれば、twitterでも重さ比べが出来る。 かくして数値化信仰の虜と我々はなるのであるが、しかし実際に具体的な数値が必要でない場合も世の中には結構多い。 最近、 分銅式の体重計のことを考えたり 、twitterで体重公開をしたりしているので、まさに無視できない記事です。数字にしなくても比較ができることは多い、と言われると、数字にしないと比較できないことを探し始めてしまいます。 まず思いつくのが、時間をまたいだ比較で、昨日の体重と今日の体重の比較、天秤じゃできないじゃん、って思うのですが、別にそんなことはなくて、天秤の片側に置いてある重しを1日そのままにしておけばいいだけですね。距離をまたいだ比較、これも重しを運べば、数字を使わず比較できます。 はてブの反応 では「天秤では2者間でしか比較できない」なんていうのもありましたが、3者間比較は天秤を3回使えばできるし、数字を使えば多者間比較ができるかっていうと、そんなことはなくて2者間比較を繰り返す必要があります。「重さと長さの比較ができない」なんていうのもありますが、それは数字を使ってもできません。 確かに、数字じゃないと比較できない、っていうのは間違っていて、まず比較可能性が先にあってその比較を便利にするために数字を使う、という順番なんだろうと思います。河村央也さんという方が管理されている 青空学園 というサイトに「 人間と量 」というページがありました。 あの山の麓まで行ったときとあの川辺まで行ったとき,体の疲れ方が違う.それは一体何が違うのだろうか.その違いをもたらす根拠として山の方が「遠い」,川の方が「近い」.さらに進んで疲れの違いをもたらす要因とし

4 U 4 Me

「あなたのためを思って」について考えます。「勉強しなさい。これはお前のためを思って...」「結婚はいいものよ。あなたのためを思って...」「こんなこと言うのは辛いけど、君のためを思って...」まあ、並べてみるだけでうんざりします。「あなたのため」に連なる言葉というのは、基本的にアドバイスや助言、苦言、説教などです。アドバイスも、ただのアドバイスじゃなくて、勉強する気がない人に勉強をすすめるとき、結婚したいと思ってない人に結婚をすすめるときに使われる言葉です。要するに、「今のあなたの考え方を変えたい」時に使われる言葉です。しかも、自分の考え方の方が正しくてあなたの考え方はおかしいという前提で、上から目線で使われる言葉です。 で、こんな言葉をあからさまに使う人は、独善的で視野がせまくて、勉強や結婚をしない選択肢の先に広がる世界への想像が欠如していることが多くて、自分の考えに共感しない人が目の前にいることへの不安が背景にあったり、理解出来ない相手を理解しようとする努力が足りなかったり、自分の歩んできた道と違うことをしてて楽しそうな相手への嫉妬があったりで、この「あなたのため」は結局「私のため」であることが多かったりします。なので、あからさまにこんな言葉を言われた場合には、「そうですね。検討します。」などと言っていればいいのですが、難しいのは、この「あなたのため」と「私のため」の境界が曖昧な時です。 「あなたのため」と「私のため」はそんなにすっきり分かれるものでもなく、自分のためにやってることが相手のためにもなってたり、相手のためにやってることが自分のためになってたり、なんてことはよくあります。特に、家族や恋人や親友みたいな距離の近い相手の場合には、この境界が曖昧になりがちです。 テレビでサッカーを見て楽しむ、なんていうのは別に他人のためにやることではありませんが、楽しそうな人が身近にいるというのは楽しいことで、自分が楽しむことが周りの人を楽しませている、というのはよくあります。「私のため」が「あなたのため」にもなっている時、それはとても心地良いことですが、たとえばサッカーに興味がなくなったとき、家族の中でサッカーを楽しむ役割ができていたりすると、本来自分が楽しむものだったはずのサッカー観戦が、楽しまなくてはならないサッカー観戦になって、仕事よりもサッカーを嫌々優先したりし

気持ちの言葉と事実の言葉

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袰岩奈々著「感じない子ども こころを扱えない大人」 を読みました。 第一章 「気持ち」についての研修会  1. もやもや気分の正体がつかめない  2. “ネガティブな気持ち”を扱う 第ニ章 ジャマモノ扱いされる感情  1. 感情をあとまわしにしてきた大人たち  2. カウンセリングの現場から  3. 感情が混乱のもと 第三章 今、こころはどんな感じ?  1. 困ったコミュニケーションがおきる仕組み  2. 気持ちに気づき、それを認めるには? 第四章 「気持ちの言葉」で話してみよう  1. 大人が“自分の気持ち”に気づくための練習問題  2. 大人が子どもと話すための練習問題 という目次の本です。 心の中身そのものを扱う文章はとても難しくて、エビデンスベーストで理論的にピチピチだったりすると、もやもやっとした心の輪郭とか襞とかっていう部分が見えなくなってしまい、一方で、直感ベーストで過度に詩的だったりレトリカルだったりすると、それはそれでもやもやっとした襞の中に溺れてしまって何が何だか分からなくなってしまいます。この本は、実体験に基づいた日常生活の言葉で分かりやすくて、かといって、浅薄というわけでは全然なくて、共感したり考えさせられたり、身につまされたり、とても楽しく読めました。 「気持ちを言葉にして表現することの大切さ」がこの本のメインコンテンツの一つです。これは本当に大切なことだと思います。職場でも家庭でもどこでもそうだと思います。なぜ大切か、どうすればできるようになるか、についてはこの本を読んでいただくとして、気持ちを言葉にして表現することが自分はできていない点については棚に上げておくことにして、今日は、ウェブで気持ちを言葉にして表現することについて思ったことをメモ。 この本でも書かれているように、感情は仕事のじゃまになることが多いわけです。メールの返信一つとっても、要件以外の言葉への返事にとても時間がかかります。要件以外の言葉、天気や季節の話題、時事ネタ、感想、言い訳、ジョーク、いろいろありますが、こういうのって、単に仕事を進める上ではじゃまな言葉です。今のご時世、ウェブのおかげで、言葉を一言も交わさずにできることが多くて、例えばシロシベの仕事だと、資料や物品の購入、サーバーの契約、印刷の発注、出張の手配、全部「こんにちは」すら使わずに完了します。要件以外のや

Website is dead

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 最近、ところどころで「ブラウザーの死」や「ウェブサイトの死」が語られている。いずれも、iPhoneアプリやiPadアプリのような個々のアプリの広まりによって、われわれはもうウェブサイトを訪ねたり、そもそもブラウザーを使ったりする必要がなくなってしまったのではないのか、という議論だ。 瀧口範子 というわけで、 tamakisono.jp をリニューアルした理由についてのメモです。上の記事に書かれていることを最近よく感じています。ウェブサイトやブラウザがすぐになくなることはないと思うのですが、確かに、ウェブサイトを作ってても、このサイトを作ることにどんな意味があるのか、というのはとても悩みます。 伝えたい言葉あるならブログに書いた方が静的なHTMLよりもよほど伝播力があるしメンテナンスもアーカイブ化も簡単です。写真を見せたいならFlickrなどの写真共有サイトにアップすれば、いちいちリサイズしなくても自動的に6種類のサイズの画像を作ってくれて、EXIFデータも可視化して、RSSをはいてくれて、タグ付け、ソート、Flashのスライドショー...、手作りでやったら大変な作業を自動的にやってくれます。動画も、自分でFlashのプレーヤーを作るのが大変ですが、というか僕にはできませんが、YouTubeなどの動画共有サイトはアップするだけでFlashにしてEmbedコードを作ってくれます。餅は餅屋、ウェブサイトを構成する要素はいちいち全部手作りするよりも、専用のウェブサービスを使う方が、安くて早いだけでなくて、はるかに高機能です。 あと重要なのは、日々変化するウェブの世界へのキャッチアップが、手作りサイトだと到底追い付かないことです。たとえばいまどきの先進的なウェブサイトでは、ブラウザからのアクセスにはブラウザ用、iPhoneからのアクセスにはiPhone用のレイアウト、なんて感じで複数のレイアウトを閲覧環境に合わせて表示させるわけですが、これも手作りサイトだったら、手間的には複数のサイトを作る作業が必要になるわけで、さらに、iPhone用にはiPhone用の作法があって、いちいち勉強しないといけないんですね。これが、ブログもFlickrもYouTubeも、その手の大きなサイトはどこよりも早く対応してくれて、コンテンツの所持者は何もしなくていいんですね。今後、iPhoneやi

今年も体重計について考える

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体重計が壊れました 。僕が高校生くらいの時からあったような気がするので、寿命なんでしょうか。で、物を所有することが嫌いなので、壊れたのをいい機会に、捨ててしまって身軽になりたい気もするのですが、一方で、ダイエットのアウトカムを測るスケールであるため(別にそんな言い方しなくてもいいけど)、なんというか、買うかどうか迷っています。 去年も同じようなことで迷っていました が、今年もまたしょうもないことで迷っています。 そもそも、僕が物を所有するのが嫌いなのは、物が好きだからです。手に入れた時のときめきとか、喜び、興奮、そういうのって絶対にずっとは続かなくて、どんなものでも、だんだん色褪せて、醜くなって、埃をかぶって、機能しなくなって、いずれは必ず所有していることが辛くなってきます。ときめかなくなったら捨てればいいのですが、物が作られて僕の手元に届くまでの経緯、歴史、染み付いた思い出、いろいろあるわけで捨てるのも辛いことですし、理性的に考えても環境への負荷とか何とか、捨てることを躊躇う要因は山のようにあります。一生愛し続ける物、なんてのもあるかもしれません。蒐集家が一生かけて集めてメンテナンスして、死んだ後に小さな博物館が作られる、みたいなこともありますが、そんなのは例外で、遺物なんて残された人たちにただ迷惑をかけるのが常です。 というわけで、話は逸れましたが体重計。そんなもん買って使って壊れたら捨てればいい種類のものではあるのですが、やっぱ良くないと思うんですね。使い捨てって良くないと思うんです。というわけで、買わない、もしくは、もし買うならば修理して300年くらい使える体重計がいいんじゃないか、って思ったりもするんです。 300年使える体重計ってことになると、ボクサーが計量で使うような分銅式の体重計だと思うんです。こんな体重計だったら、毎朝の体重計測もきっと楽しい儀式になると思うんですね。ググッてみると128000円...。ううん。確かに、10年に1回5000円の体重計を買い換えていくとすれば、これを300年使えばお得にはなるのですが、300年も生きてないし...。そもそも飽きっぽいので、今年の秋には体重を測ってない可能性も高く、っていうか、体重計に10万なんてどう考えても常軌を逸しているわけで、これはナシです。どなたか、処分に困っている分銅式の体重計をお持ちの方がいら

シロシベの研究助成の理由

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昨日スライドだけアップして 中身の説明をしてないので、その場にいらっしゃらなかった方へ向けた補足と、あと昨日言うつもりをしてて言いそびれたこともついでに追加します。シロシベの研究助成の話です。 ちょっと夢のある話を入れたいというのと、表現してしまったほうが実現可能性が高まる、ということで入れたスライドです。なので、今すぐ募集を始めるとかそんな具体的な感じの話ではまだありません。 このようなことをやりたいと思う理由は、営利企業といえども社会貢献することが使命だと思うので、何かちゃんと行動したい、というのが最初の動機です。精神保健領域の研究事業への助成を通して、学術、医療、福祉、文化の向上に寄与する、ということです。で、もちろん、こんな美しい動機だけではなくて、他の動機もいろいろあります。 募集要項などはこれからちゃんと考えないといけないのですが、譲れない部分としては、僕自信がその研究に参加する、という部分です。他人の研究資金を単に提供するぐらいだったら慈善団体に寄付したり納税したほうが手間もかからず有益かもしれません。で、昨日のお話では、「100万円と書いてはいるけど、実際には、そのうち90万円くらいはシロシベクーポンかもしれません」なんてことを言っていたのですが、あくまで僕が参加できる研究への助成です。実態は、助成の名を借りた「共同研究者と素敵なアイデアの募集」です。 昨日のシンポジウムでは、研究者の Proactive / Reactive な仕事という話があったのですが、この言葉を借りると、シロシベが Proactive な仕事をするための仕組み作りです。研究は、研究者自身の知的好奇心に基づいて行われるものや社会の要請によって行われるもの、いろいろあります。厚労省系の研究機関であれば厚生労働行政の政策立案につながる研究が求められ、民間企業の研究機関ではその企業の経営戦略に応じた研究が求められると思います。なので、研究者といえども組織のメンバーであるので、研究者自身の内発的な動機に基づいた仕事が後回しにされがちで、Reactive な仕事が大きな割合を占めてしまいます。 シロシベなんて研究下請業者なので、油断すると100% Reactiveな仕事になってしまいます。もちろん、下請にはクリエティビティや主体性を発揮する場所がないかっていうと、そんなことは全然なくてと

研究者になりたかったんですね

昨日の同窓会で大先輩に「あなたはずっと研究者になりたかったんですね。ひしひし伝わりました。」って言われました。そんなことを発表したつもりは全然なかったけど、言われてみればほんとにその通りで、ずっと前は研究者に憧れていました。 で、実際に研究者と呼ばれる人たちにたくさん出会って、研究に参加できるようになって、「なんだか思ってたのと違う」とか「向いてないかも」とか様々なことを思い、研究者に憧れていたことを忘れていました。というか、いろんな言い訳をつけて、逃げる口実を探して、憧れていたことをなかったことにしようとしてたんだと思います。憧れていた場所に実際に立ってみると、憧れてたことって忘れちゃうんですね。 昔に思い描いていた研究者像とは全然違うけど、これからどうなるか全然わからないけど、何だかんだいって、研究って面白いことだし、研究者には面白い人が多いし、これからも研究とのつながりを持ち続けていたい、とはっきり自覚するようになりました。 他にもたくさんの素敵なフィードバックをいただきました。ありがとうございました。

シロシベのお仕事

今日のシンポジウムで使うスライドです。シンポジウムに先立ってウェブで公開。