はじめに身体的違和感ありき

このまえ、404 Blog Not Found を読んでて考えさせられたのでメモ。引用すると、

重量の比較に必要なのは天秤であって、具体的な数値ではないのである。そしてこの事は全ての比較に関して成り立つ。比較とはあくまで定性的(qualitative)な作業であり、定量的(quantitative)な作業ではないのである。

それではなぜ大人ほど天秤のことを忘れてしまうのか?

具体的な数値を使った比較の方が、楽だからだ。比較の都度天秤にのせるより、具体的な数字を集計した方がずっとやりやすい。天秤を使った比較は全作業をリアルで行う必要があるが、体重計の数値公表方式であれば、twitterでも重さ比べが出来る。

かくして数値化信仰の虜と我々はなるのであるが、しかし実際に具体的な数値が必要でない場合も世の中には結構多い。

最近、分銅式の体重計のことを考えたり、twitterで体重公開をしたりしているので、まさに無視できない記事です。数字にしなくても比較ができることは多い、と言われると、数字にしないと比較できないことを探し始めてしまいます。

まず思いつくのが、時間をまたいだ比較で、昨日の体重と今日の体重の比較、天秤じゃできないじゃん、って思うのですが、別にそんなことはなくて、天秤の片側に置いてある重しを1日そのままにしておけばいいだけですね。距離をまたいだ比較、これも重しを運べば、数字を使わず比較できます。はてブの反応では「天秤では2者間でしか比較できない」なんていうのもありましたが、3者間比較は天秤を3回使えばできるし、数字を使えば多者間比較ができるかっていうと、そんなことはなくて2者間比較を繰り返す必要があります。「重さと長さの比較ができない」なんていうのもありますが、それは数字を使ってもできません。

確かに、数字じゃないと比較できない、っていうのは間違っていて、まず比較可能性が先にあってその比較を便利にするために数字を使う、という順番なんだろうと思います。河村央也さんという方が管理されている青空学園というサイトに「人間と量」というページがありました。

あの山の麓まで行ったときとあの川辺まで行ったとき,体の疲れ方が違う.それは一体何が違うのだろうか.その違いをもたらす根拠として山の方が「遠い」,川の方が「近い」.さらに進んで疲れの違いをもたらす要因としての「遠さ」が認識されていく.量はまず比較にはじまる.

さらに「高い-低い:高さ」が知られ,どこかで「遠さ」と「高さ」に共通する「長さ」へ飛躍していったに違いない.ここに至るのに行ったどれだけの時間がかかったことだろうか.耕す土地の広さもまた,仕事の量として認識されていったのだろう.「広い-狭い:広さ」である.入れものに入る水の量から,容器の「大きい-小さい:大きさ」が知られ,この量がまた,岩の「大きさ」と同じ量であることがどこかで認識されたのだ.「広い」という言葉はすでに万葉集に出てくる.「天地は比呂之(ヒロシ)といへど」(『万葉集』八九二).それに対して量としての「大きい」は比較的新しい.室町時代以降よく使われるようになった.それだけ抽象的なのだ.

このように人間は身体の感覚を基礎として比較を可能にする根拠として量をつかむ.より一般な量を抽象していった.それにしても「広い-狭い」の本質を「広さ」と言い,あまり「狭さ」とは言わない.「高さ」とは言うが「低さ」とは言わない.「短さ」,「小ささ」とも言わない.これは,はるかな昔から,人間が量の方向性と増大の方向を意識していたことを示している.

ただし,それを「量」一般として認識するのはまた別のことがらであり,長い年月を要した.結論的に言えば,量そのもののは近代においてはじめて認識された.それとともに量にもいろいろな種類のあることが改めて認識された.

おお。ほう。そうなんですよね。まず最初に、身体感覚に基づいた違和感があって、その違いをもたらす要因への気付きがあって、言語化され、抽象化され、方向性を与えられ、量化されっていう順番なんですよね。美しさの価値に値段はつけられない、っていうのは、別の言い方をすると、美しいものとそうでないものがあって、違いがあることについては言語化されてて、比較されたりもするけど、まだ量化されていない(そもそもできない?)っていうことなんですよね、きっと。

で、寺田寅彦の「量的と質的と統計的と」という文章を思い出すのですが、
「発見」されるよりずっと前から多くの人の二つの開いた目の前にちゃんと現在して目に触れていても、それが「在る」という質的事実を掘り出し、しっかり把握するまでにはなかなか長い時を待たなければならないのである。またおもしろいことには、物理学上における画期的の理論でも、ほとんど皆その出発点は質的な「思いつき」である。近代の相対性理論にしても、量子力学にしても、波動力学にしても基礎に横たわるものはほとんど哲学的、あるいは質的なる物理的考察である。実際これらの理論の提出された当初の論文の形はある意味においてはほとんど質的のものである。それが量的に一部は確定され一部は修正されるのにはやはりかなりに長い月日を要するのである。

ここでもやはり、まず最初に質的な気付きがあって、苦心の末に量化され、という順番なんですね。

で、難しいのは、すでに量化されて流通しているものへの接し方で、身体的な違和感に出発した質的な差異がいったん量化され流通すると、量の便利さに目がくらんで質が見えなくなるんですね。QOL尺度の得点がこっちの群で高いから生活の質が高い、とか、こっちのほうが高い値段がついてるから良いもの、とか、まさに本末転倒で、あらゆる尺度は比較を便利にするために開発された道具で、貨幣は交換を便利にするために発明された道具、ということを忘れると、何が何だかわからなくなっちゃうんですね。

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