4 U 4 Me
「あなたのためを思って」について考えます。「勉強しなさい。これはお前のためを思って...」「結婚はいいものよ。あなたのためを思って...」「こんなこと言うのは辛いけど、君のためを思って...」まあ、並べてみるだけでうんざりします。「あなたのため」に連なる言葉というのは、基本的にアドバイスや助言、苦言、説教などです。アドバイスも、ただのアドバイスじゃなくて、勉強する気がない人に勉強をすすめるとき、結婚したいと思ってない人に結婚をすすめるときに使われる言葉です。要するに、「今のあなたの考え方を変えたい」時に使われる言葉です。しかも、自分の考え方の方が正しくてあなたの考え方はおかしいという前提で、上から目線で使われる言葉です。
で、こんな言葉をあからさまに使う人は、独善的で視野がせまくて、勉強や結婚をしない選択肢の先に広がる世界への想像が欠如していることが多くて、自分の考えに共感しない人が目の前にいることへの不安が背景にあったり、理解出来ない相手を理解しようとする努力が足りなかったり、自分の歩んできた道と違うことをしてて楽しそうな相手への嫉妬があったりで、この「あなたのため」は結局「私のため」であることが多かったりします。なので、あからさまにこんな言葉を言われた場合には、「そうですね。検討します。」などと言っていればいいのですが、難しいのは、この「あなたのため」と「私のため」の境界が曖昧な時です。
「あなたのため」と「私のため」はそんなにすっきり分かれるものでもなく、自分のためにやってることが相手のためにもなってたり、相手のためにやってることが自分のためになってたり、なんてことはよくあります。特に、家族や恋人や親友みたいな距離の近い相手の場合には、この境界が曖昧になりがちです。
テレビでサッカーを見て楽しむ、なんていうのは別に他人のためにやることではありませんが、楽しそうな人が身近にいるというのは楽しいことで、自分が楽しむことが周りの人を楽しませている、というのはよくあります。「私のため」が「あなたのため」にもなっている時、それはとても心地良いことですが、たとえばサッカーに興味がなくなったとき、家族の中でサッカーを楽しむ役割ができていたりすると、本来自分が楽しむものだったはずのサッカー観戦が、楽しまなくてはならないサッカー観戦になって、仕事よりもサッカーを嫌々優先したりして「なんだよ仕事休んでサッカー見に帰ってきたのに。先に寝てやがる。」などと、なんだかよく分からない怒りの感情が生まれてしまいます。
家族が病気にかかった場合など、最初は病気を患った家族のためを思ってしていた看病がいつしか自分の生きがいになってしまっていて、家族の病気が治ることを阻む、みたいなこともよくあります。家族じゃなくても、医療従事者や福祉職者でもこういうことはあるのかもしれません。人に限らず、施設や制度もそうかもしれません。
人と一緒に過ごす上で、「あなたのため」と「私のため」が重なる部分を大きくすることは居心地のよい時間を増やす上でとても大切なことで、社会の中で暮らす上で「社会のため」と「私のため」が重なる部分を広げる努力はとても大切です。で、努力の結果、運良く居心地のいい場所を見つけることができたとき、そこでそれを役割として固定化してしまうと厄介なんだと思います。人も社会も刻一刻と変化するので、いつか必ず「あなたのため」と「私のため」も変化することを忘れない、というのが大切だと思う、という話です。
で、こんな言葉をあからさまに使う人は、独善的で視野がせまくて、勉強や結婚をしない選択肢の先に広がる世界への想像が欠如していることが多くて、自分の考えに共感しない人が目の前にいることへの不安が背景にあったり、理解出来ない相手を理解しようとする努力が足りなかったり、自分の歩んできた道と違うことをしてて楽しそうな相手への嫉妬があったりで、この「あなたのため」は結局「私のため」であることが多かったりします。なので、あからさまにこんな言葉を言われた場合には、「そうですね。検討します。」などと言っていればいいのですが、難しいのは、この「あなたのため」と「私のため」の境界が曖昧な時です。
「あなたのため」と「私のため」はそんなにすっきり分かれるものでもなく、自分のためにやってることが相手のためにもなってたり、相手のためにやってることが自分のためになってたり、なんてことはよくあります。特に、家族や恋人や親友みたいな距離の近い相手の場合には、この境界が曖昧になりがちです。
テレビでサッカーを見て楽しむ、なんていうのは別に他人のためにやることではありませんが、楽しそうな人が身近にいるというのは楽しいことで、自分が楽しむことが周りの人を楽しませている、というのはよくあります。「私のため」が「あなたのため」にもなっている時、それはとても心地良いことですが、たとえばサッカーに興味がなくなったとき、家族の中でサッカーを楽しむ役割ができていたりすると、本来自分が楽しむものだったはずのサッカー観戦が、楽しまなくてはならないサッカー観戦になって、仕事よりもサッカーを嫌々優先したりして「なんだよ仕事休んでサッカー見に帰ってきたのに。先に寝てやがる。」などと、なんだかよく分からない怒りの感情が生まれてしまいます。
家族が病気にかかった場合など、最初は病気を患った家族のためを思ってしていた看病がいつしか自分の生きがいになってしまっていて、家族の病気が治ることを阻む、みたいなこともよくあります。家族じゃなくても、医療従事者や福祉職者でもこういうことはあるのかもしれません。人に限らず、施設や制度もそうかもしれません。
人と一緒に過ごす上で、「あなたのため」と「私のため」が重なる部分を大きくすることは居心地のよい時間を増やす上でとても大切なことで、社会の中で暮らす上で「社会のため」と「私のため」が重なる部分を広げる努力はとても大切です。で、努力の結果、運良く居心地のいい場所を見つけることができたとき、そこでそれを役割として固定化してしまうと厄介なんだと思います。人も社会も刻一刻と変化するので、いつか必ず「あなたのため」と「私のため」も変化することを忘れない、というのが大切だと思う、という話です。