5日目
こんにちは。研修5日目、今日は「真宗史」です。主に親鸞の生涯についてのお話でした。
東京大学史料編纂所での「親鸞非実在説とその反論」の紹介から始まります。でまあ、実在したというのが今の定説。とはいえ、詳細については諸説あったりもします。主な情報のソースは、親鸞の曾孫が残した「親鸞伝絵(しんらんでんね)」や恵信尼の書簡などです。
親鸞は1173年、京都の日野家の長男として誕生。日野家は平安朝廷に仕える官吏の家系。時代は古代から中世への転換期、公家から武家へ勢力が大きく移る時代。親鸞と父と4人の弟全てが出家していることから、日野家は平安末期に次々に没落した下級公家の一つであったらしい、とのこと。何かに目覚めて出家したわけではなく、それしかなくて出家した、みたいなことなんですね。
1181年、9歳で得度。その時に詠んだと伝えられる歌、
「明日ありと おもう心の あだ桜 夜半にあらしの 吹かぬものかは」
9歳って今でいう何歳なんでしょう。9歳か...。平安貴族ってどんな教育してたんでしょうね。平安末期って9歳児でも無常感を言葉にしてしまうような世の中だったんでしょうかね。
で、得度して比叡山にのぼります。
当時の比叡山は天台宗の総本山というだけでなく仏教を学ぶ最高学府。親鸞はここで「堂僧」として20年間修業します。堂僧とは、主に「不断念仏の行」を行う僧です。不断念仏の行は、1日に20時間以上、食事と入浴以外、阿弥陀仏像の周囲を「南無阿弥陀仏」と口にしながらぐるぐる歩き続けるっていうのを90日間続ける、っていう修行だそうです...。これをやってると、感覚が研ぎ澄まされて、線香の灰の落ちる音が轟音になり、仏が見えるようになる、と。それは確かに見えそうです。これを9歳から29歳までの20年間続けます。しかも平均寿命は今よりはるかに短い当時の20年。ううん、ちょっと想像を絶します。で、仏が見えると、どんな仏が見えたかを偉いお坊さんに報告するんですって。そうすると、偉いお坊さんが「それは本物」とか「それは違う」って判断するんだそうです。現代において、これを精神科の先生に報告するとお薬が出てきそうですね。強制的に別の修行が始まってしまうとかね。
で、親鸞は思い悩んだ末、比叡山を29歳(1201年)で下ります。そして尊敬する聖徳太子にゆかりのある京都の六角堂に100日通います。95日目に聖徳太子の夢を見て、法然の門下に入ります。このあたりについてはいくつか文章が残っていて、この時期が「自力」から「他力」への転換点だったようです。うまく説明できませんが、「修行して善行をつんで自らを高める」から「ぬぐいきれない自らの愚かさを受け入れる」への転換っていうんでしょうか。こう書くと薄っぺらいですね...。なんていうか、単純に努力を放棄したり否定したりするわけでもなく、あきらめるってことでもなく、開き直るってことでもなく、煩悩を積極的に肯定するってことでもなく...ま、修行をやめて町で暮らすようになります。
で、法然のもとで勉学に励みますが、この時間はそう長くは続きません。法然の「身分に関係なく、悪人も愚者も、いかなる者も救われる」という思想は、当時の民衆に歓迎され、人気を集めます。しかしこれは当然、既存の仏教教団から反感を買い、比叡山や朝廷から非難を浴びます。さらに1207年、後鳥羽上皇がかわいがっていた女官(松虫と鈴虫)と法然の弟子(安楽と住蓮)が男女の関係になった挙句に女官たちが無断で出家してしまうという出来事があり、これを知った後鳥羽上皇が激怒し、安楽や住蓮ら4人を死罪に、法然や親鸞ら8人を流罪に処します。なんとも味わい深いエピソードです。
そして越後に流された親鸞、このころから親鸞は自らを「非僧非俗」「愚禿」と称するようになります。非僧非俗、国家に認められるような僧侶ではないが、単なる俗人ではなく仏教に帰依している、という意味。愚禿は「愚かなハゲ」という言葉で、禿は、剃髪して衣を着て僧侶の姿をしていても戒律を持てないような僧侶の蔑称、だそうです。国家権力に守られ政治活動にいそしむ僧、飢え苦しむ民衆に目もくれずに山奥の寺にこもって修行に励む僧、これらに対する非難の意味を込めた「非僧非俗」「愚禿」だそうです。
さらにこのころ、親鸞は結婚します。玉日姫と一度目の結婚をし一児をもうけ、恵信尼と二度目の結婚をし六児をもうける、とも、一度目の結婚はなかった、とも、玉日姫と恵信尼は同一人物、とも、要するに詳細は不明。恵信尼と結婚し子どもがいたことは間違いないだろう、とのこと。
39歳(1211年)のときに流罪が許され、1214年から妻子とともに関東に移住します。移住とはいえ一か所に定住したわけではなく、関東の広い範囲を旅してまわる生活だったとのこと。伝道の旅です。親鸞の伝道の手法は、「自信教人信(じしんきょうにんしん)」の言葉で表されます。自ら信じて人を教え信じせしめる、だそうです。寺は持たず既存の村のお堂を使い、「南無阿弥陀仏」の六文字を本尊とし仏像を持たず、弟子は持たず一緒に念仏するものはみな仏の弟子、というのが親鸞のスタイルだった、とのこと。関東在住20年、親鸞の思想に共感する者たちの組織が各地に形作られるようになります。このような門徒組織を支配したり所有したりする関係を嫌う親鸞は、自身と門徒の関係においても、門徒と門徒との間にも対等な関係を求めます。だそうです。モダンです。
60歳頃、妻子とともに京都に戻ります。理由は諸説あります。75歳(1247年)、主著である教行信証が一応の完成、その後も生涯加筆修正が加えられます。76歳(1248年)から85歳(1257年)にかけて三帖和讃を書きます。これは漢文ではなく和語による著作です。この頃、何があったのか分かりませんが妻の恵信尼は出生地の越後に移り住み、親鸞は京都に残る弟たちの家に住まい、末娘の覚信尼が親鸞の晩年の世話をします。といった晩年です。90歳(1262年)、弟や娘に見取られつつ亡くなります。
親鸞の死後、本願寺が建立されいくつかの宗派が独立したりしつつ細々と受け継がれていきます。この頃の本願寺は比叡山の下にぶらさがる一末寺だったんですね。で、1457年に8代目の蓮如が継職し、ここで時流に乗って浄土真宗は急速に巨大な組織に成長します。
この後の浄土真宗の歴史、信長や秀吉といった知ってる名前が出てきたり、様々な利害関係やドロドロのかけひきがあったり、多くの舞台が滋賀県だったり、って感じで面白そうではありますが、今日はここまで、またおいおい。
東京大学史料編纂所での「親鸞非実在説とその反論」の紹介から始まります。でまあ、実在したというのが今の定説。とはいえ、詳細については諸説あったりもします。主な情報のソースは、親鸞の曾孫が残した「親鸞伝絵(しんらんでんね)」や恵信尼の書簡などです。
親鸞は1173年、京都の日野家の長男として誕生。日野家は平安朝廷に仕える官吏の家系。時代は古代から中世への転換期、公家から武家へ勢力が大きく移る時代。親鸞と父と4人の弟全てが出家していることから、日野家は平安末期に次々に没落した下級公家の一つであったらしい、とのこと。何かに目覚めて出家したわけではなく、それしかなくて出家した、みたいなことなんですね。
1181年、9歳で得度。その時に詠んだと伝えられる歌、
「明日ありと おもう心の あだ桜 夜半にあらしの 吹かぬものかは」
9歳って今でいう何歳なんでしょう。9歳か...。平安貴族ってどんな教育してたんでしょうね。平安末期って9歳児でも無常感を言葉にしてしまうような世の中だったんでしょうかね。
で、得度して比叡山にのぼります。
当時の比叡山は天台宗の総本山というだけでなく仏教を学ぶ最高学府。親鸞はここで「堂僧」として20年間修業します。堂僧とは、主に「不断念仏の行」を行う僧です。不断念仏の行は、1日に20時間以上、食事と入浴以外、阿弥陀仏像の周囲を「南無阿弥陀仏」と口にしながらぐるぐる歩き続けるっていうのを90日間続ける、っていう修行だそうです...。これをやってると、感覚が研ぎ澄まされて、線香の灰の落ちる音が轟音になり、仏が見えるようになる、と。それは確かに見えそうです。これを9歳から29歳までの20年間続けます。しかも平均寿命は今よりはるかに短い当時の20年。ううん、ちょっと想像を絶します。で、仏が見えると、どんな仏が見えたかを偉いお坊さんに報告するんですって。そうすると、偉いお坊さんが「それは本物」とか「それは違う」って判断するんだそうです。現代において、これを精神科の先生に報告するとお薬が出てきそうですね。強制的に別の修行が始まってしまうとかね。
で、親鸞は思い悩んだ末、比叡山を29歳(1201年)で下ります。そして尊敬する聖徳太子にゆかりのある京都の六角堂に100日通います。95日目に聖徳太子の夢を見て、法然の門下に入ります。このあたりについてはいくつか文章が残っていて、この時期が「自力」から「他力」への転換点だったようです。うまく説明できませんが、「修行して善行をつんで自らを高める」から「ぬぐいきれない自らの愚かさを受け入れる」への転換っていうんでしょうか。こう書くと薄っぺらいですね...。なんていうか、単純に努力を放棄したり否定したりするわけでもなく、あきらめるってことでもなく、開き直るってことでもなく、煩悩を積極的に肯定するってことでもなく...ま、修行をやめて町で暮らすようになります。
で、法然のもとで勉学に励みますが、この時間はそう長くは続きません。法然の「身分に関係なく、悪人も愚者も、いかなる者も救われる」という思想は、当時の民衆に歓迎され、人気を集めます。しかしこれは当然、既存の仏教教団から反感を買い、比叡山や朝廷から非難を浴びます。さらに1207年、後鳥羽上皇がかわいがっていた女官(松虫と鈴虫)と法然の弟子(安楽と住蓮)が男女の関係になった挙句に女官たちが無断で出家してしまうという出来事があり、これを知った後鳥羽上皇が激怒し、安楽や住蓮ら4人を死罪に、法然や親鸞ら8人を流罪に処します。なんとも味わい深いエピソードです。
そして越後に流された親鸞、このころから親鸞は自らを「非僧非俗」「愚禿」と称するようになります。非僧非俗、国家に認められるような僧侶ではないが、単なる俗人ではなく仏教に帰依している、という意味。愚禿は「愚かなハゲ」という言葉で、禿は、剃髪して衣を着て僧侶の姿をしていても戒律を持てないような僧侶の蔑称、だそうです。国家権力に守られ政治活動にいそしむ僧、飢え苦しむ民衆に目もくれずに山奥の寺にこもって修行に励む僧、これらに対する非難の意味を込めた「非僧非俗」「愚禿」だそうです。
さらにこのころ、親鸞は結婚します。玉日姫と一度目の結婚をし一児をもうけ、恵信尼と二度目の結婚をし六児をもうける、とも、一度目の結婚はなかった、とも、玉日姫と恵信尼は同一人物、とも、要するに詳細は不明。恵信尼と結婚し子どもがいたことは間違いないだろう、とのこと。
39歳(1211年)のときに流罪が許され、1214年から妻子とともに関東に移住します。移住とはいえ一か所に定住したわけではなく、関東の広い範囲を旅してまわる生活だったとのこと。伝道の旅です。親鸞の伝道の手法は、「自信教人信(じしんきょうにんしん)」の言葉で表されます。自ら信じて人を教え信じせしめる、だそうです。寺は持たず既存の村のお堂を使い、「南無阿弥陀仏」の六文字を本尊とし仏像を持たず、弟子は持たず一緒に念仏するものはみな仏の弟子、というのが親鸞のスタイルだった、とのこと。関東在住20年、親鸞の思想に共感する者たちの組織が各地に形作られるようになります。このような門徒組織を支配したり所有したりする関係を嫌う親鸞は、自身と門徒の関係においても、門徒と門徒との間にも対等な関係を求めます。だそうです。モダンです。
60歳頃、妻子とともに京都に戻ります。理由は諸説あります。75歳(1247年)、主著である教行信証が一応の完成、その後も生涯加筆修正が加えられます。76歳(1248年)から85歳(1257年)にかけて三帖和讃を書きます。これは漢文ではなく和語による著作です。この頃、何があったのか分かりませんが妻の恵信尼は出生地の越後に移り住み、親鸞は京都に残る弟たちの家に住まい、末娘の覚信尼が親鸞の晩年の世話をします。といった晩年です。90歳(1262年)、弟や娘に見取られつつ亡くなります。
親鸞の死後、本願寺が建立されいくつかの宗派が独立したりしつつ細々と受け継がれていきます。この頃の本願寺は比叡山の下にぶらさがる一末寺だったんですね。で、1457年に8代目の蓮如が継職し、ここで時流に乗って浄土真宗は急速に巨大な組織に成長します。
この後の浄土真宗の歴史、信長や秀吉といった知ってる名前が出てきたり、様々な利害関係やドロドロのかけひきがあったり、多くの舞台が滋賀県だったり、って感じで面白そうではありますが、今日はここまで、またおいおい。